を踊り、次のような歌を歌った。
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ジャンヌの生まれはフーゼール、
羊飼い女のまことの巣。
われは愛す、その裳衣、
すね者。
愛は彼女のうちに生く。
彼女の瞳《ひとみ》のうちにこそ、
愛は置きぬ、その矢筒、
やたら者。
われは彼女を歌にせん。
ディアナよりもなおいとし、
わがジャンヌとその乳房《ちぶさ》、
ちから者。
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それから彼は椅子《いす》の上にひざまずいた。少し開いてる扉《とびら》のすきから彼の様子を注意していたバスクは、たしかに彼が祈りをしているのだと思った。
その時まで、彼はほとんど神を信じていなかったのである。
マリユスの容態がますますよくなってゆくごとに、祖父は狂わんばかりになった。やたらにうれしげな機械的な行動をした。自分でなぜともわからずに階段を上ったり下ったりした。隣に住んでたひとりの美しい婦人は、ある朝大きな花輪を受け取って茫然《ぼうぜん》とした。それを贈ったのはジルノルマン氏だった。そのために彼女は夫から疑られまでした。ジルノルマン氏はニコレットを膝《ひざ》に抱き上げようとした。マリユスを男爵殿と呼んだ。「共和万歳!」と叫ぶこともあった。
彼は始終医者に尋ねた、「もう危険はないでしょうね。」彼は祖母のような目つきでマリユスをながめた。マリユスが物を食べる時はそれから目を離さなかった。彼はもう自分を忘れ、自分を眼中に置いていなかった。マリユスが一家の主人となっていた。彼は喜びの余り自分の地位を譲り与え、孫に対して自分の方が孫となっていた。
そういう喜悦のうちにあって、彼は最も尊むべき子供となっていた。癒《なお》りかかった病人を疲らしたりわずらわしたりすることを恐れて、ほほえみかける時でさえそのうしろにまわった。彼は満足で、愉快で、有頂天で、麗しく、若々しくなった。その白髪は、顔に現われてる喜びの輝きに、一種のやさしい威厳を添えた。高雅な趣が顔の皺《しわ》といっしょになる時には、いかにも景慕すべきものとなる。花を開いた老年のうちには言い知れぬ曙《あけぼの》の気がある。
マリユスの方は、人々に包帯をさせ看護をさせながら、コゼットという一つの固定した観念をいだいていた。
熱と昏迷《こんめい》とが去って以来、彼はもうその名前を口にせず、あるいはもうそのことを考えていないのかとも思われた。しかし彼が黙っていたのは、まさしく彼の魂がそこに行ってるからだった。
彼はコゼットがどうなったか少しも知らなかった。シャンヴルリー街の事件はただ一片の雲のように記憶の中に漂っていた。エポニーヌやガヴローシュやマブーフやテナルディエ一家の者や、防寨《ぼうさい》の硝煙にものすごく包まれてる友人らなどは、皆ほとんど見分けのつかないほどの影となって彼の脳裏に浮かんでいた。その血まみれの事件のうちに不思議にもフォーシュルヴァン氏が現われたことは、暴風雨中の謎《なぞ》のように彼には思えた。自分の生命については彼は何にもわからなかった。どうしてまただれから救われたのか少しも知らなかった。周囲の人々にもそれを知ってる者はなかった。周囲の人々から彼が聞き得たことは、辻馬車《つじばしゃ》に乗せられて夜中にフィーユ・デュ・カルヴェール街に運ばれてきたということだけだった。過去も現在も未来も、すべては彼にとって漠然《ばくぜん》たる観念の靄《もや》にすぎなかった。しかしその靄の中に、不動な一点が、明確な一つの形が、花崗岩《かこうがん》でできてるようなある物が、一つの決意が、一つの意志が、存在していた。すなわち再びコゼットに会うことだった。彼にとっては、生命の観念とコゼットの観念とは別々のものではなかった。彼は心のうちで、その一方だけを受け取ることはすまいと決していた。だれでも自分を生きさせようと望む者には、祖父にも運命にも地獄にも、消えうせたエデンの園を戻すように要求してやろうと、決心の臍《ほぞ》を固めていた。
それに対する障害は、彼も自らよく認めていた。
特に一事をここに力説しておくが、祖父のあらゆる親切や慈愛も、彼の心を奪うことは少しもできず、彼の心を和らげることはあまりできなかった。第一、彼はすべてのことをよく知っていなかった。次に、まだおそらく熱に浮かされてる病床の夢想のうちに彼は、自分を懐柔しようとする変な新しい試みと見|做《な》して、祖父のやさしい態度を信じなかった。彼は冷淡にしていた。祖父はそのあわれな老いた微笑を空《むな》しく費やすのみだった。マリユスはこう考えていた。自分が何にも口をきかずなされるままにしている間だけ、祖父も穏やかにしているのだ、しかし問題が一度コゼットのことにおよんだなら、祖父の顔は一変し、その真の態度が仮面をぬいで現われて来
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