にはたえ得るくらい濃密だったが、明らかにふたりを支えることはできなかった。マリユスとジャン・ヴァルジャンとは、もし別々に分かれたらあるいは無事ですむかも知れなかった。しかしジャン・ヴァルジャンは、おそらくはもう死骸《しがい》になってるかも知れない瀕死《ひんし》のマリユスをにないながら、続けて前進した。
 水は腋《わき》まできた。彼は今にも沈み込むような気がした。その深い泥土の中で歩を運ぶのも辛うじてであった。ささえとなる泥の密度はかえって障害となった。彼はなおマリユスを持ち上げ、非常な力を費やして前進した。しかしますます沈んでいった。もう水から出てるのは、マリユスをささえてる両腕と頭とだけだった。洪水《こうずい》の古い絵には、そういうふうに子供を差し上げてる母親が見らるる。
 彼はなお沈んでいった。水を避けて呼吸を続けるために、頭をうしろに倒して顔を上向けた。もしその暗黒の中で彼を見た者があったら、影の上に漂ってる仮面かと思ったかも知れない。彼は自分の上に、マリユスのうなだれた頭と蒼白《そうはく》な顔とを、ぼんやり見分けた。彼は死に物狂いの努力をして、足を前方に進めた。足は何か固いものに触れた。一つの足場である。ちょうどいい時だった。
 彼は身を伸ばし、身をひねり、夢中になってその足場に乗った。あたかも生命のうちに上ってゆく階段の第一段のように思えた。
 危急の際に底の泥《どろ》の中で出会ったその足場は、底部の向こうの一端だった。それは曲がったままこわれないでいて、板のようにまた一枚でできてるかのように、水の下に撓《しな》っていた。よく築かれた石畳工事は、迫持《せりもち》になっていてかくまでに丈夫なものである。その一片の底部は、半ば沈没しながらなお強固で、まったく一つの坂道となっていた。一度その坂に足を置けば、もう安全だった。ジャン・ヴァルジャンはその斜面を上って、泥濘孔《でいねいこう》の彼岸に着いた。
 彼は水から出て、一つの石に出会い、そこにひざまずいた。彼は自然にそういう心地になって、しばらくそこにひざまずいたまま、全心を投げ出して言い知れぬ祈念を神にささげた。
 彼は身を震わし、氷のように冷たくなり、臭気にまみれ、瀕死《ひんし》の者をになって背をかがめ、泥濘をしたたらし、魂は異様な光明に満たされながら、立ち上がった。

     七 上陸の間ぎわに座礁することあり

 ジャン・ヴァルジャンは[#「ジャン・ヴァルジャンは」は底本では「ジャンヴァルジャンは」]再び進み出した。
 けれども、崩壊孔の中に生命は落としてこなかったとするも、力はそこに落としてきたがようだった。極度の努力に彼は疲憊《ひはい》しつくしていた。今は身体に力がなくて、三、四歩進んでは息をつき、壁によりかかって休んだ。ある時は、マリユスの位置を変えるために段の所にすわらなければならなかった。そしてもう動けないかと思った。しかしたとい力はなくなっていたとするも、元気は消えうせていなかった。彼はまた立ち上がった。
 彼はほとんど足早に絶望的に歩き出して、頭も上げず、息もろくにつかないで、百歩ばかり進んだ。すると突然壁にぶつかった。下水道の曲がり角《かど》に達し、頭を下げて歩いていたので、その壁に行き当たったのである。目を上げてみると、隧道《すいどう》の[#「隧道《すいどう》の」は底本では「隊道《すいどう》の」]先端に、前方の遠いごくはるかな彼方《かなた》に、一つの光が見えた。今度は前のように恐ろしい光ではなかった。それは楽しい白い光だった。日の光であった。
 ジャン・ヴァルジャンは出口を認めたのである。
 永劫《えいごう》の罰を被って焦熱地獄の中にありながら突然出口を認めた魂にして始めて、その時ジャン・ヴァルジャンが感じた心地を知り得るだろう。その魂は、焼け残りの翼をひろげて、光り輝く出口の方へ、狂気のごとく飛んでゆくに違いない。ジャン・ヴァルジャンはもう疲労を感じなかった。もうマリユスの重みをも感じなかった。足は再び鋼鉄のように丈夫になって、歩くというよりもむしろ走っていった。近づくにしたがって、出口はますますはっきり見えてきた。それは穹窿形《きゅうりゅうけい》の迫持《せりもち》で、しだいに低くなってる隧道の丸天井よりも更に低く、丸天井が下がるにしたがってしだいに狭《せば》まってる隧道よりも更に狭かった。隧道は漏斗《ろうと》の内部のようになっていた。かくしだいにつぼんでる不都合な形は、重罪監獄の側門を模したもので、監獄では理に合っているが、下水道では理に合わないので、その後改造されてしまった。
 ジャン・ヴァルジャンはその出口に達した。
 そこで彼は立ち止まった。
 まさしく出口ではあったが、出ることはできなかった。
 丸い門は丈夫な鉄格子《てつごうし》で閉
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