常に起こり得ることであるが、三十年前のパリー下水道にも起こり得るのであった。
一八三三年に始められた大工事以前には、パリーの地下の道はよく突然人を埋没させるようになっていた。
水が特に砕けやすい下層の地面にしみ込むので、古い下水道では舗石《しきいし》であり新しい下水道ではコンクリートの上に固めた水硬石灰である部分は、もうそれをささえるものがなくなって揺るぎ出していた。この種の牀板《ゆかいた》においては、一つの皺《しわ》はすなわち一つの割れ目である。一つの割れ目はすなわち一つの崩壊である。底部はかなり長く破壊していた。泥濘の二重の深淵たるその亀裂を専門の言葉では崩壊孔[#「崩壊孔」に傍点]と称していた。崩壊孔とは何であるか? 突然地下で出会う海岸の流砂である。下水道の中にあるサン・ミシェルの丘の刑場である。水を含んだ土地は溶解したようになっている。その分子は柔らかい中間に漂っている。土でもなく水でもない。時としては非常な深さにおよんでいる。そういうものに出会うほど恐ろしいことはない。もし水が多ければ、死はすみやかであって、直ちにのみ込まれてしまう。もし泥《どろ》が多ければ、死はゆるやかであって、徐々に埋没される。
そういう死は人の想像にもおよばないだろう。埋没が海浜の上においても既に恐るべきものであるとするならば、下水溝渠《げすいこうきょ》の中においてはどんなものであろう。海浜においては、大気、外光、白日、朗らかな眼界、広い物音、生命を雨降らす自由の雲、遠くに見える船、種々の形になって現われる希望、き合わせるかも知れない通行人、最後の瞬間まで得られるかも知れない救助、それらのものがあるけれども、下水道の中においてはただ、沈黙、暗黒、暗い丸天井、既にでき上がってる墳墓の内部、上を蔽《おお》われてる泥土《でいど》の中の死、すなわち汚穢《おわい》のための徐々の息苦しさ、汚泥の中に窒息が爪《つめ》を開いて人の喉《のど》をつかむ石の箱、瀕死《ひんし》の息に交じる悪臭のみであって、砂浜ではなく泥土であり、台風ではなくて硫化水素であり、大洋ではなくて糞尿《ふんにょう》である。頭の上には知らぬ顔をしている大都市を持ちながら、徒《いたず》らに助けを呼び、歯をくいしばり、もだえ、もがき、苦しむのである。
かくのごとくして死ぬる恐ろしさは筆紙のおよぶところではない。時とすると死は、一種の壮烈さによってその恐ろしさを贖《あがな》われることがある。火刑や難破のおりなどには、人は偉大となることがある。炎や白波の中においては、崇高な態度も取られる。そこでは滅没しながら偉大な姿と変わる。しかし下水の中ではそうはゆかない。その死は醜悪である。そこで死ぬのは屈辱である。最後に目に浮かぶものは汚穢である。泥土は不名誉と同意義の言葉である。それは小さく醜くまた賤《いや》しい。クレランス([#ここから割り注]訳者注 イギリスのエドワード四世の弟で、王に背いた後死刑に処せられた時、自ら葡萄酒の樽の中の溺死の刑を求めたと伝えられている[#ここで割り注終わり])のように芳香|葡萄酒《ぶどうしゅ》の樽《たる》の中で死ぬのはまだいいが、エスクーブロー([#ここから割り注]訳者注 本章末節参照[#ここで割り注終わり])のように溝浚人《どぶさらいにん》の墓穴の中で死ぬのはたまらない。その中でもがくのは醜悪のきわみである。死の苦しみをしながら泥水中《でいすいちゅう》を歩くのである。地獄と言ってもいいほどの暗黒があり、泥穴と言ってもいいほどの泥濘《でいねい》があって、その中に死んでゆく者は、果たして霊魂となるのか蛙《かえる》となるのかを自ら知らない。
墳墓はどこにあっても凄惨《せいさん》なものであるが、下水道の中では醜悪なものとなる。
崩壊孔の深さは一定でなく、またその長さや密度も場所によって異なり、地層の粗悪さに比例する。時とすると、三、四尺の深さのこともあれば、八尺から十尺にもおよぶことがあり、あるいは底がわからぬこともある。その泥土はほとんど固くなってる所もあれば、ほとんど水のように柔らかい所もある。リュニエールの崩壊孔では、ひとりの人が没するに一日くらいかかるが、フェリポーの泥濘では五分間くらいですむ。泥土の密度いかんに従ってその支持力にも多少がある。大人が没しても子供なら助かる所がある。安全の第一要件は、あらゆる荷物を捨ててしまうことにある。足下の地面が撓《しな》うのを感ずる下水夫らは、いつもまず第一に、その道具袋や負《お》い籠《かご》や泥桶《どろおけ》を投げ捨てるのであった。
崩壊孔のできる原因は種々である。地質の脆弱《ぜいじゃく》、人の達し得ないほど深い所に起こる地すべり、夏の豪雨、絶え間ない冬の雨、長く続く霖雨《りんう》など。また時とすると、泥灰岩や砂質の地
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