いたことは確かである。
 その明らかな事実は、鉄格子《てつごうし》を揺すっている男の頭に突然浮かんできた。彼は憤然として思わず結論を口走った。
「実にけしからん、政府の鍵を持っている!」
 それから彼は直ちに冷静に返って、頭の中にいっぱい乱れてる考えのすべてを、ほとんど冷罵《れいば》のような一息の強い単語で言い放った。
「よし、よし、よし、よしっ!」
 そう言って、あるいは男が再び出て来るのを見るつもりか、あるいは他の男どもがはいってゆくのを見るつもりか、とにかく何事かを期待しながら、気長く憤怒を忍んでる猟犬のような様子で、残壊物の堆積のうしろに潜んで見張りをした。
 彼の足並みに速度を合わしてきた辻馬車《つじばしゃ》の方も、上方の胸欄のそばに止まった。御者は長待ちを予想して、下の方が湿ってる燕麦《えんばく》の袋を馬の鼻面にあてがった。そういう食物の袋はパリー人のよく知ってるもので、ついでに言うが、彼ら自身も時々政府からそれをあてがわれることがある。まれにイエナ橋を渡る通行人らは、遠ざかる前に振り返って、あたりの景色の中にじっと動かないでいる二つのもの、汀《みぎわ》の上の男と川岸通りの上の辻馬車《つじばしゃ》とを、しばらくながめていった。

     四 彼もまた十字架を負う

 ジャン・ヴァルジャンは再び前進し始めて、もう足を止めなかった。
 行進はますます困難になってきた。丸天井の高さは一定でなかった。平均の高さは五尺六寸ばかりで、人の身長に見積もられていた。ジャン・ヴァルジャンはマリユスを天井に打ちつけないように背をかがめなければならなかった。各瞬間に身をかがめ、それからまた立ち上がり、絶えず壁に触れてみなければならなかった。壁石の湿気と底部の粘質とは、手にもまた足にもしっかりしたささえを与えなかった。彼は都市のきたない排泄物《はいせつぶつ》の中につまずいた。風窓から時々さしてくる明るみは、長い間を置いてしか現われてこなかったし、太陽の光も月の光かと思われるほど弱々しかった。その他はすべて、靄《もや》と毒気と混濁と暗黒のみだった。ジャン・ヴァルジャンは腹がすき喉《のど》がかわいていた。ことにかわきははなはだしかった。しかもそこは海のように、水が一面にありながら一滴も飲むことのできない場所だった。彼の体力は、読者の知るとおり非常に大であって、清浄節欲な生活のために老年におよんでもほとんど減じてはいなかったが、それでも今や弱り始めてきた。疲労は襲ってき、そのために力は少なくなり、背の荷物はしだいに重さを増してきた。マリユスはもう死んでるのかも知れないと思われた。命のない身体のようにずっしりした重さがあった。ジャン・ヴァルジャンはその胸をなるべく押さえないように、またその呼吸がなるべく自由に通うようなふうに、彼をになっていた。足の間には鼠《ねずみ》がすばやく逃げてゆくのを感じた。中には狼狽《ろうばい》の余り彼に噛《か》みついたのがあった。時々下水道の口のすき間から新しい空気が少し流れ込んできたので、彼はまた元気になることもあった。
 彼が囲繞溝渠《いじょうこうきょ》に達したのは、午後三時ごろであったろう。
 最初に彼は突然広くなったのに驚いた。両手を伸ばしても両方の壁に届かず頭も上の丸天井に届かないほどの広い隧道《すいどう》に、にわかに出たのだった。実際その大溝渠は、広さ八尺あり高さは七尺ある。
 モンマルトル下水道が大溝渠に合してる所には、他の二つの隧道、すなわちプロヴァンス街のそれと屠獣所のそれとが落ち合って、四つ辻《つじ》を作っている。ごく怜悧《れいり》な者でなければその四つの道のうちを選択することは困難であった。幸いにジャン・ヴァルジャンは一番広い道を、すなわち囲繞溝渠を選みあてた。しかしそこにまた問題が起こってきた。傾斜を下るべきか、あるいは上るべきか? 事情は切迫しているし今はいかなる危険を冒してもセーヌ川に出なければいけないと、彼は考えた、言い換えれば、傾斜をおりてゆかなければならないと。彼は左へ曲がった。
 その選定は彼のために仕合わせだった。囲繞溝渠はベルシーの方へとパッシーの方へと二つの出口があると思い、その名の示すがようにセーヌ右岸のパリーの地下を取り巻いてると思うのは、誤りである。来歴を考えればわかることであるが、その大溝渠は昔のメニルモンタン川にほかならないのであって、上手に上ってゆけば一つの行き止まりに達する。その行き止まりはすなわち、昔の川の出発点で、メニルモンタンの丘の麓《ふもと》にある源泉だった。ポパンクール街より以下のパリーの水を合し、アムロー上水道となり、昔のルーヴィエ島の上手でセーヌ川に注いでる一脈とは、何ら直接の連絡はないのである。集合溝渠を完全ならしむるその一脈は、メニルモンタン街の
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