かった。街路や四つ辻《つじ》の勾配《こうばい》が終わってる低部には、大きな四角の鉄格子《てつごうし》が方々に見えていた。格子の太い鉄棒は、群集の足に磨《みが》かれて光っており、馬車にはすべりやすくて危険であり、馬もよくころぶほどだった。橋梁《きょうりょう》や道路に関する公用語では、それらの低部や鉄格子に Cassis([#ここから割り注]訳者注 ラテン語にてはくもの巣という意味になる[#ここで割り注終わり])という意味深い名前を与えていた。この一八三二年には、エトアール街、サン・ルイ街、タンプル街、ヴィエイユ・デュ・タンプル街、ノートル・ダーム・ド・ナザレ街、フォリー・メリクール街、フルール河岸、プティー・ムュスク街、ノルマンディー街、ポン・トー・ビーシュ街、マレー街、サン・マルタン郭外、ノートル・ダーム・デ・ヴィクトアール街、モンマルトル郭外、グランジュ・バトリエール街、シャン・ゼリゼー、ジャコブ街、トールノン街、などの多数の街路には、昔のゴチック式の汚水溝渠《おすいこうきょ》がまだその口を皮肉らしく開いていた。時代のついた厚顔さをそなえ、時には標石でめぐらされた、のろまな巨大な石の空洞《くうどう》であった。
一八〇六年のパリーの下水道は、一六六三年五月に調べられたのとほとんど同じで、五千三百二十八|尋《ひろ》だった。ところがブリュヌゾーの工事の後、一八三二年一月一日には、四万三百メートルとなっていた。すなわち一八〇六年から三一年まで毎年平均七百五十メートル作られたことになる。その後、毎年八千メートルから時には一万メートルに及ぶ隧道《すいどう》が、コンクリートで固めた上に水硬石灰の漆喰工事《しっくいこうじ》を施して作られた。一メートルに二百フランとして、現今のパリーの下水道六十里は四千八百万フランを示している。
最初に指摘した経済上の進歩論のほかに、公衆衛生の重大な案件が、パリーの下水道というこの大問題に関連している。
パリーは水の層と空気の層と二つの間にはさまれている。水の層はかなり深い地下に横たわっているが、既に二つの穿孔《せんこう》によって達せられていて、白堊《はくあ》とジュラ系石灰岩との間にある緑の砂岩帯から供給される。この砂岩帯は、半径二十五里の円盤でおおよそを示すことができる。多数の大小の河川がその中に浸透している。グルネルの泉の水一杯を飲めば、セーヌ、マルヌ、イオンヌ、オアーズ、エーヌ、シェル、ヴィエンヌ、ロアール、などの諸川の水を飲むことになる。この水の層は健全なるものである。第一に空からき、つぎに地からきたものである。しかるに空気の層は不健全で、下水道からきたものである。汚水溝渠《おすいこうきょ》のあらゆる毒ガスが市中の呼吸に交じっている。そこから悪い気息が起こってくる。科学の証明するところによれば、肥料の堆積の上で取った空気も、パリーの上で取った空気よりははるかに清い。けれども一定の時日を経たならば、進歩するにつれ、各種の機関も完成し、光明も増加して、人は水の層を用いて空気の層を清めるようになるであろう。言い換えれば、下水道を洗滌《せんじょう》するようになるであろう。下水道の洗滌という語に吾人がいかなる意味を持たしてるかを、読者は既に知っているはずである。すなわちそれは、汚穢《おわい》を土地に返す事である、汚穢を土地に送り肥料を田野に送る事である。この簡単な一事によって、社会全体が貧窮の減少と健康の増進とを得るであろう。現今にあっては、パリーからの疫病の放射は、ルーヴルを疫病車の轂《こしき》とすれば、その周囲五十里におよんでいる。
過去十世紀の間汚水溝渠はパリーの病毒だったとも言い得るだろう。下水道は市が血液の中に持ってる汚点である。人民も本能からよくそれを知っていた。屠獣者《とじゅうしゃ》の仕事は、非常に恐れられて、長い間死刑執行人の手にゆだねられていたが、下水掃除夫の仕事も、昔はそれとほとんど同じように危険なものであり、同じように民衆からいやがられていた。泥工に頼んでその臭い堀の中にはいってもらうには、高い賃銀を出さなければならなかった。井戸掘り人の梯子《はしご》もそこにはいるには躊躇していた。「下水道におりてゆくのは墓穴の中にはいることだ[#「下水道におりてゆくのは墓穴の中にはいることだ」に傍点]、」というたとえまでできていた。その上前に述べたとおり、あらゆる種類の嫌忌《けんき》すべき伝説のために、その巨大な下水道は恐ろしいことどもでおおわれていた。実に世に恐れられた洞窟《どうくつ》であって、その中には、人間の革命とともに地球の革命の跡まで残っており、ノアの大洪水のおりの貝殻からマラーのぼろに至るまで、あらゆる大変災の遺物が見いだされるのである。
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第三編 泥土《でいど
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