ながめ、あたかもおのれの目でそこに穴を明けようとしてるかと思われた。
 ながめてるうちに、深い心痛のうちにも漠然《ばくぜん》と認めらるる何かが浮き出してきて、彼の足下に一定の形を取って現われた。あたかも目の力でそこに望む物を作り出したかのようだった。すなわち数歩先の所に、外部からきびしく監視され待ち受けられてる小さな防寨《ぼうさい》の根本に、積まれた舗石《しきいし》の乱れてる下に半ば隠されて、地面と水平に平たく置かれてる鉄格子《てつごうし》を、彼は見つけたのである。その格子は、丈夫な鉄の棒を横に渡して作られたもので、二尺四方くらいの大きさだった。それを堅めてる周囲の舗石がめくられたので、錠をはずされたようになっていた。鉄棒の間からは、煖炉の煙筒か水槽の管のような暗い穴が見えていた。ジャン・ヴァルジャンは飛んでいった。昔の脱走の知識が、電光のように彼の頭に上がってきた。上に重なってる舗石をはねのけ、鉄格子を引き上げ、死体のようにぐったりとなってるマリユスを肩にかつぎ、背中にその重荷をつけたまま、肱《ひじ》と膝《ひざ》との力によって、幸いにもあまり深くない井戸のようなその穴の中におりてゆき、頭の上に重い鉄の蓋《ふた》をおろし、その上にまた揺らいでる舗石を自然にくずれ落ちてこさせ、地下三メートルの所にある舗石の面に足をおろすこと、それだけのことを彼は、あたかも狂乱のうちになすかのように、巨人の力と鷲《わし》の迅速《じんそく》さとをもってなし遂げた。わずかに数分間を費やしたのみだった。
 かくてジャン・ヴァルジャンは、まだ気を失ってるマリユスと共に、地下の長い廊下みたいなものの中に出た。
 そこは、深い静穏、まったくの沈黙、闇夜《やみよ》のみであった。
 昔街路から修道院の中に落ちこんだ時に感じた印象が、彼の頭に浮かんできた。ただ、彼が今になっているのは、コゼットではなくてマリユスであった。
 襲撃を受けてる居酒屋の恐ろしい騒擾《そうじょう》の響きも、今や漠然《ばくぜん》たるつぶやきの声のように、かすかに頭の上方に聞こえるきりだった。
[#改ページ]

   第二編 怪物の腸


     一 海のために痩《や》する土地

 パリーは年に二千五百万フランの金を水に投じている、しかもこれは比喩《ひゆ》ではない。いかにしてまたいかなる方法でか? 否昼夜の別なく常になされている。いかなる目的でか? 否何の目的もない。いかなる考えでか? 否何という考えもない。何ゆえにか? 否理由はない。いかなる機関によってか? その腸によってである。腸とは何であるか? 曰《いわ》く、下水道。
 二千五百万という金額は、その方面の専門科学によって見積もられた概算のうちの最も低い額である。
 科学は長い探究の後、およそ肥料中最も豊かな最も有効なのは人間から出る肥料であることを、今日認めている。恥ずかしいことであるが、われわれヨーロッパ人よりも先に支那人はそれを知っていた。エッケベルク氏の語るところによれば、支那の農夫で都市に行く者は皆、われわれが汚穢《おわい》と称するところのものを二つの桶《おけ》にいっぱい入れ、それを竹竿《たけざお》の両端に下げて持ち帰るということである。人間から出る肥料のお陰で、支那の土地は今日なおアブラハム時代のように若々しい。支那では小麦が、種を一粒|蒔《ま》けば百二十粒得らるる。いかなる海鳥糞《かいちょうふん》も、その肥沃《ひよく》さにおいては都市の残滓《ざんさい》に比すべくもない。大都市は排泄物《はいせつぶつ》を作るに最も偉大なものである。都市を用いて平野を肥《こや》すならば、確かに成功をもたらすだろう。もしわれわれの黄金が肥料であるとするならば、逆に、われわれの出す肥料は黄金である。
 この肥料の黄金を人はどうしているか? 深淵《しんえん》のうちに掃きすてているのである。
 多くの船隊は莫大《ばくだい》な費用をかけて、海燕やペンギンの糞《ふん》を採りに、南極地方へ送り出される。しかるに手もとにある無限の資料は海に捨てられている。世間が失っている人間や動物から出るあらゆる肥料を、水に投じないで土地に与えるならば、それは世界を養うに足りるであろう。
 標石のすみに積まれてる不潔物、夜の街路を通りゆく泥濘《でいねい》の箱車、塵芥《ごみ》捨て場のきたない樽《たる》、鋪石《しきいし》に隠されてる地下の臭い汚泥《おでい》の流れ、それらは何であるか? 花咲く牧場であり、緑の草であり、百里香や麝香草《じゃこうそう》や鼠尾草《たむらそう》であり、小鳥であり、家畜であり、夕方満足の声を立てる大きな牛であり、かおり高い秣《まぐさ》であり、金色の麦であり、食卓の上のパンであり、人の血管を流るるあたたかい血液であり、健康であり、喜悦であり、生命である。地にあ
前へ 次へ
全155ページ中45ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
ユゴー ヴィクトル の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング