とらえた手をゆるめないで、モンデトゥール小路の小さな砦《とりで》を、ようやくにしてジャヴェルにまたぎ越さした。
 その防壁を乗り越した時、彼らはその小路の中で、まったくふたりきりになった。だれも見ている者はなかった。暴徒らからは人家の角《かど》で隠されていた。防寨から投げ捨てられた死骸《しがい》が、数歩の所に恐ろしいありさまをして積み重なっていた。
 その死骸の重なった中に、一つのまっさおな顔と乱れた髪と穴のあいた手と半ば裸の女の胸とが見えていた。エポニーヌであった。
 ジャヴェルはその女の死体を横目でじっとながめ、深く落ち着き払って低く言った。
「見覚えがあるような娘だ。」
 それから彼はジャン・ヴァルジャンの方に向いた。
 ジャン・ヴァルジャンはピストルを小わきにはさみ、ジャヴェルを見つめた。その目つきの意味は言葉にせずとも明らかだった。「ジャヴェル、私だ、」という意味だった。
 ジャヴェルは答えた。
「復讐するがいい。」
 ジャン・ヴァルジャンは内隠しからナイフを取り出して、それを開いた。
「どす[#「どす」に傍点]か?」とジャヴェルは叫んだ。「もっともだ。貴様にはその方が適当だ。」
 ジャン・ヴァルジャンはジャヴェルの首についてる鞅縛《むながいしば》りを切り、次にその手首の繩《なわ》を切り、次に身をかがめて、足の綱を切った。そして立ち上がりながら言った。
「これで君は自由だ。」
 ジャヴェルは容易に驚く人間ではなかった。けれども、我を取り失いはしなかったが一種の動乱をおさえることができなかった。彼は茫然《ぼうぜん》と口を開いたまま立ちすくんだ。
 ジャン・ヴァルジャンは言い続けた。
「私はここから出られようとは思っていない。しかし万一の機会に出られるようなことがあったら、オンム・アルメ街七番地にフォーシュルヴァンという名前で住んでいる。」
 ジャヴェルは虎《とら》のように眉《まゆ》をしかめて、口の片すみをちらと開いた。そして口の中でつぶやいた。
「気をつけろ。」
「行くがいい。」とジャン・ヴァルジャンは言った。
 ジャヴェルはまた言った。
「フォーシュルヴァンと言ったな、オンム・アルメ街で。」
「七番地だ。」
 ジャヴェルは低く繰り返した。「七番地。」
 彼は上衣のボタンをはめ、両肩の間に軍人らしい硬直な線を作り、向きを変え、両腕を組んで一方の手で頤《あご》をささえ、そして市場町の方へ歩き出した。ジャン・ヴァルジャンはその姿を見送った。数歩進んだジャヴェルは振り向いて、ジャン・ヴァルジャンに叫んだ。
「君は俺《おれ》の心を苦しめる。むしろ殺してくれ。」
 ジャヴェルはジャン・ヴァルジャンに向かってもうきさまと言っていないのを自ら知らなかった。
「行くがいい。」とジャン・ヴァルジャンは言った。
 ジャヴェルはゆるい足取りで遠ざかっていった。やがて彼はプレーシュール街の角《かど》を曲がった。
 ジャヴェルの姿が見えなくなった時、ジャン・ヴァルジャンは空中にピストルを発射した。
 それから彼は防寨《ぼうさい》の中に戻って言った。
「済んだ。」
 その間に次のことが起こっていた。
 マリユスは防寨の内部より外部の方に多く気を取られて、下の広間の薄暗い奥に縛られた間謀《スパイ》をその時までよくは見なかった。
 しかし、死にに行くため防寨をまたぎ越してる間謀《スパイ》をま昼の光で見た時、彼はその顔を思い出した。一つの記憶が突然頭に浮かんできた。ポントアーズ街の警視のことと、防寨の中で自分が使っている二梃《にちょう》のピストルはその警視からもらったものであることを、思い起こした。そしてその顔を思い起こしたばかりでなく、またその名前を思い起こした。
 けれどもその記憶は、彼の他の観念と同じように、おぼろげで乱れていた。それは自ら下した断定ではなく、自ら試みた疑問であった。
「あの男は、ジャヴェルと名乗ったあの警視ではないかしら?」
 たぶんまだその男のために調停する時間はあったろう。しかし、果たしてあのジャヴェルであるかをまず確かめなければならなかった。
 マリユスは防寨の向こう端に位置を占めたアンジョーラを呼びかけた。
「アンジョーラ!」
「何だ!」
「あの男の名は何というんだ。」
「どの男?」
「あの警察の男だ。君はその名前を知ってるか。」
「もちろん。自分で名乗ったんだ。」
「何という名だ。」
「ジャヴェル。」
 マリユスは身を起こした。
 その時、ピストルの音が聞こえた。
 ジャン・ヴァルジャンが再び現われて、「済んだ」と叫んだ。
 暗い悪寒《おかん》がマリユスの心をよぎった。

     二十 死者も正しく生者も不正ならず

 防寨《ぼうさい》の臨終の苦悶《くもん》はまさに始まろうとしていた。
 その最後の瞬間の悲痛な荘厳さ
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