た。
マリユスは一言も発し得なかった。ジャン・ヴァルジャンは言い添えた。「ありがとう。」
コゼットは肩掛けをぬぎ捨て、帽子を寝台の上に投げやった。
「邪魔だわ。」と彼女は言った。
そして老人の膝《ひざ》の上にすわりながら、得も言えぬやさしい手つきで彼の白髪を払いのけ、その額に脣《くち》づけをした。
ジャン・ヴァルジャンは惘然《ぼうぜん》として、されるままになっていた。
コゼットはただ漠然《ばくぜん》としか事情を了解していなかったが、あたかもマリユスの負い目を払ってやりたいと思ってるかのように、いっそう親愛の度を強めていた。
ジャン・ヴァルジャンは口ごもりながら言った。
「人間というものは実に愚かなものです。私はもう彼女に会えないと思っていました。考えてもごらんなさい、ポンメルシーさん、ちょうどあなたがはいってこられる時、私はこう自分で言っていました。万事終わった、そこに彼女の小さな長衣がある、私はみじめな男だ、もうコゼットにも会えないのだ、と私はそんなことを、あなたが階段を上ってこられる時言っていました。実に私はばかではありませんか。それほど人間はばかなものです。しかしそれは神を頭に置いていないからです。神はこう言われます。お前は人から見捨てられるだろうと思うのか、ばかな、いや決して、そんなことになるものではないと。ところで、天使をひとり必要とするあわれな老人がいるとします。すると天使がやってきます。コゼットにまた会います。かわいいコゼットにまた会います。ああ、私は実に不幸でした。」
彼はそれからちょっと口がきけなかった。がまた言い続けた。
「私は実際、ごく時々でもコゼットに会いたかったのです。人の心は噛《か》みしめるべき骨を一つほしがるものです。けれどもまた、自分はよけいな者だと私は感じていました。あの人たちにはお前はいらない、お前は自分の片すみに引っ込んでいるがよい、人はいつでも同じようにしてることはできないものだ、そう私は自分で自分に言いきかせました。ああしかし、ありがたいことには、私はまた彼女に会った! ねえコゼット、お前の夫《おっと》は実にりっぱだ。ああお前はちょうど、刺繍したきれいな襟《えり》をつけているね。私はその模様が好きだ。夫から選んでもらったのだろうね。それからお前にはカシミヤがよく似合うから是非買ってごらん。ああポンメルシーさん、
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