いや決して。」と彼は言った。
男は平然として、肱《ひじ》で帽子の塵《ちり》を払い、言い進んだ。
「人殺しでかつ盗賊であります。よくお聞き下さい、閣下。私が今申し上げますのは、古い時期おくれの干からびた事実ではありません。法律に対しては時効のために消され、神に対しては悔悟のために消されたような、そういう事実ではありません。最近の事実、現在の事実、今にまだ法廷から知られていない事実、それを申してるのであります。続けてお話しいたしますが、その男がうまくあなたの信用を得、名前を変えて御家庭にはいり込んでおります。その本名をお知らせ申しましょう。しかもただでお知らせいたしましょう。」
「聞きましょう。」
「ジャン・ヴァルジャンという名でございます。」
「それは知っています。」
「なお私は報酬も願わないで、彼がどういう人物だかを申し上げましょう。」
「お言いなさい。」
「元は徒刑囚だった身の上です。」
「それは知っています。」
「私が申し上げましたからおわかりになりましたのでしょう。」
「いや。前から知っていたのです。」
マリユスの冷然たる調子、それは知っています[#「それは知っています」に傍点]という二度の返事、相手に二の句をつがせないような簡明さ、それらは男の内心を多少|激昂《げっこう》さした。彼は憤激した目つきをちらとマリユスに投げつけた。そのまなざしはすぐに隠れて、一瞬の間にすぎなかったが、一度見たら忘れられないようなものだった。マリユスはそれを見のがさなかった。ある種の炎はある種の魂からしか発しない。思想の風窓である眸《ひとみ》は、そのために焼かれてしまう。眼鏡《めがね》もそれを隠すことはできない。地獄にガラスをかぶせたようなものである。
男はほほえみながら言った。
「私は何も男爵閣下のお言葉に逆らうつもりではございません。がとにかく、私がよく秘密を握っているということは認めていただきたいのでございます。これからお知らせ申し上げますことは、ただ私ひとりしか承知していないことであります。それは男爵夫人閣下の財産に関することでございます。非常な秘密でありまして、金に代えたいつもりでいます。でまず最初閣下にお買い上げを願いたいのです。お安くいたしましょう。二万フランに。」
「その秘密というのも、他の秘密と同様に私は知っています。」とマリユスは言った。
男はその価を
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