しゃるの、と尋ねてみますと、ただ聞いてみたのだ、と答えたのですよ。」
 ジャン・ヴァルジャンは一言も発し得なかった。コゼットはたぶん彼から何かの説明を待っていたのであろう。しかし彼は沈鬱《ちんうつ》な無言のまま彼女の言葉に耳を傾けた。彼はオンム・アルメ街に戻っていった。彼は深く考え込んでいたので、入り口をまちがえて、自分の家にはいらず、隣の家にはいり込んだ。そしてほとんど三階まで上っていってからようやく、まちがったことに気づいて、またおりていった。
 彼の精神は種々の推測に苦しめられた。マリユスがあの六十万フランの出所について疑いをいだき、何か不正な手段で得られたものではないかと恐れてるのは、明らかだった。おそらく彼は、その金がジャン・ヴァルジャンから出たものであることを発見したのかも知れなかったし、その怪しい財産に不安の念をいだき、それを自分の手に取ることを好まず、コゼットとふたりでうしろ暗い金持ちとなるよりむしろ貧しい暮らしをしようと思ってるのかも知れなかった。
 その上|漠然《ばくぜん》とジャン・ヴァルジャンは、自分が排斥されてるのを感じ始めた。
 翌日、例の下の室《へや》にはいってゆくと彼は一種の戦慄《せんりつ》を感じた。肱掛《ひじか》け椅子《いす》は二つともなくなっていた。普通の椅子さえ一つもなかった。
「まあ、椅子がない!」とコゼットははいってきて叫んだ。「椅子はどこにあるんでしょう?」
「もうありません。」とジャン・ヴァルジャンは答えた。
「あんまりですわ!」
 ジャン・ヴァルジャンはつぶやいた。
「持ってゆくように私がバスクに言いました。」
「なぜです。」
「今日はちょっとの間しかいないつもりですから。」
「長くいないからと言って、立ったままでいる理由にはなりません。」
「何でも客間に肱掛け椅子がいるとかバスクが言っていたようです。」
「なぜでしょう。」
「たしか今晩お客があるのでしょう。」
「いえだれもきはしません。」
 ジャン・ヴァルジャンはそれ以上何とも言うことができなかった。
 コゼットは肩をそびやかした。
「椅子を持ってゆかせるなんて! こないだは火を消さしたりして、ほんとにあなたは変な方ですわ。」
「さようなら。」とジャン・ヴァルジャンはつぶやいた。
 彼は「さようなら、コゼット」とは言わなかった。しかし「さようなら、奥さん」と言う力もな
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