セせるようなことは一つも考えていなかった。夜中の二時にクールフェーラックのもとに帰りつき、着物もぬがずにそのまま蒲団《ふとん》の上に身を投げ出した。すっかり夜が明けてからようやく、あらゆる考えがなお頭の中に行ききする重い恐ろしい眠りに陥った。目をさますとちょうど、クールフェーラックとアンジョーラとフイイーとコンブフェールとが頭に帽子をかぶり、出かけるばかりの忙しそうな様子をして、室《へや》の中に立っていた。
 クールフェーラックは彼に言った。
「君はラマルク将軍の葬式に行かないか。」
 彼にはクールフェーラックの言葉も訳のわからぬ支那語のように聞こえた。
 皆が出て行った後しばらくして彼も出かけた。二月三日の事件のおりジャヴェルからもらったまま手もとに残ってる二つのピストルを、彼はポケットの中に入れた。それにはまだ弾丸が込めてあった。頭の中にいかなるひそかな考えがあってそれを持ち出したかは、語るに困難なことである。
 自らどことも知らないで彼は終日歩き回った。時々雨が降ったのもまったく気づかなかった。食事のためにあるパン屋で一スーの長パンを買ったが、それもポケットに入れたまま忘れてしまった。何というつもりもなしにセーヌ川にはいって水を浴びたようでもあった。頭蓋骨《ずがいこつ》の下に烈火が燃え立ってるような時も人にはあるものである。マリユスはちょうどそういう時にさしかかっていた。もう何一つ願わず、何一つ恐れなかった。彼は前夜以来そういう状態になっていた、そして熱しいら立ちながら晩になるのを待った。ただ一つの明らかな考えばかりが残っていた、すなわち九時にコゼットに会うこと。その最後の幸福こそ今では彼の未来のすべてだった。その先はただ暗黒のみであった。寂しい大通りを歩いていると、間をおいて不思議な響きがパリーの市中に聞こえるようだった。彼は夢幻のうちから頭を差し出して言った。「戦争でもしてるのかしら。」
 暗くなる頃、ちょうど九時に、コゼットに約束したとおり彼はプリューメ街にきていた。鉄門に近寄った時彼はすべてを忘れた。この前コゼットと会ってからもう四十八時間、そして今再び会えるのである。その他の考えは消えてしまい、異常な深い喜びをしかもう感じなかった。数世紀の長い間とも思えるかかる数分時は、常におごそかな驚嘆すべき特質を有していて、過ぎ去りつつ人の心をまったく満たしてくれるものである。
 マリユスは鉄棒を動かし、庭の中に飛び込んだ。コゼットはいつも彼を待っていてくれる例の所にいなかった。彼は藪《やぶ》の間を通りぬけ、踏み段のそばの奥まった所まで行った。「そこで待ってるのだろう、」と彼は言った。しかしコゼットはそこにもいなかった。目を上げると、家の雨戸は皆閉ざされていた。庭を一回りしたが、やはりだれもいなかった。その時彼は家の前へ戻ってき、愛のために我を忘れ、悲しみと不安とのために惑乱しおびえいら立って、時ならぬ時間に家に帰ってきた主人《あるじ》のように、雨戸をうちたたいた。たたきにたたいた。窓があけられ父親の恐ろしい顔が現われ「何だ?」と尋ねられる危険をも顧みなかった。心に待ち望んでいることに比ぶればそれは取るに足らぬことだった。たたき終えた時、彼は声をあげて「コゼット!」と叫んだ。「コゼット!」と激しく繰り返した。何の答えもなかった。万事は終わっていた。庭にはだれもいず、家の中にもだれもいなかった。
 マリユスは、墳墓のように暗く黙々としてしかもいっそう空虚なその悲しい家に絶望の目を据えた。コゼットのそばで幾多の楽しい時間を過ごした石の腰掛けをながめた。それから踏み段の上にすわり、心は情愛と決意とに満ち、胸の奥で自分の愛を祝福し、コゼットが出発してしまった今となってはもはや死ぬのほかはないと自ら言った。
 突然彼は人の声を聞いた。それは街路から来るもののようで、木立ち越しに叫んでいた。
「マリユスさん!」
 彼は身を起こした。
「ええ?」と彼は言った。
「マリユスさん、あなたそこにいるの?」
「ええ。」
「マリユスさん、」とその声はまた言った、「お友だちがみなあなたを、シャンヴルリー街の防寨《ぼうさい》で待っています。」
 その声は彼のまったく知らないものではなかった。何だかエポニーヌの荒いつぶれた声に似寄っていた。マリユスは鉄門の所に走ってゆき、動く棒を押し開き、その間から頭を出した。見ると、若い男らしく思われる一人の者が、向こうへ走りながら暗がりの中に消えていった。

     三 マブーフ氏

 ジャン・ヴァルジャンの財布はマブーフ氏には何の役にも立たなかった。マブーフ氏はその子供らしい尊い謹厳さをもって、天の賜物をも決して受納しなかった。星がルイ金貨になり得るとは考えられなかった。天から落ちてきたものは実はガヴローシュか
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