「いとね。――ところがいけない。断じていかん!」
「お父さん!」
「いかん!」
この「いかん」という語が発せられた調子に、マリユスはすべての希望を失った。彼は頭をたれ、よろめきながら、徐々に室《へや》の中を退いていった。それは立ち去る人というよりも、むしろ死にかかってる人のようであった。ジルノルマン氏は彼を目送していたが、扉《とびら》が開かれてマリユスが外に出ようとした時、性急ながむしゃらな老人の敏活さで数歩進んで、マリユスの首筋をつかみ、激しく室《へや》の中に引き戻し、肱掛《ひじか》け椅子《いす》の上に投げ倒し、そして言った。
「まあよく話せ!」
そう彼の態度が変わったのは、マリユスが偶然発した「お父さん[#「お父さん」に傍点]」という一語のためだった。
マリユスは茫然《ぼうぜん》として彼をながめた。ジルノルマン氏の変わりやすい顔にはもう、露骨な名状し難い人の好《よ》さしか現われていなかった。後見人は祖父と代わったのであった。
「さあ話すがいい。お前の艶種《つやだね》を、女のことをすっかり私に言ってしまいなさい。どうも、若い者ときたら仕方がない。」
「お父さん!」とマリユスは言った。
老人の顔には何とも言えない輝きが満ちた。
「うむ、そうだ、わしをお父さんと呼ぶがいい、聞いてやるから。」
その時にはもうその粗暴さのうちにも、ある親切なやさしい打ち明けた親身《しんみ》らしい調子がこもっていて、マリユスは突然落胆から希望に移ってゆき、そのためにぼんやりして酔ったようになった。彼はテーブルのそばにすわっていたので、服装の見すぼらしさが蝋燭《ろうそく》の光に目立ち、ジルノルマン老人はそれを見て驚いた。
「で、お父さん!」とマリユスは言った。
「いかにも、」とジルノルマン氏はさえぎった、「お前はまったく一スーもないんだね。お前の様子は泥坊のようだ。」
彼は引き出しの中を探り、金入れを取り出し、それをテーブルの上に置いた。
「さあ、ここに百ルイ([#ここから割り注]二千フラン[#ここで割り注終わり])ある。帽子でも買うがいい。」
「お父さん、」とマリユスは言い出した、「ねえお父さん、どんなにか私は彼女を愛してることでしょう。御想像もつきますまい。始めて会ったのはリュクサンブールの園でした。彼女はいつもそこにやってきました。初め私は大して気にも止めませんでした。けれどそれから、どうしたのか自分でもわかりません、いつか恋するようになりました。ああそのために私はどんなにか心を痛めたでしょう。そして今では、毎日、彼女の家で会っています。父親はそれを知りません。ところが、察して下さい、その親子は遠くに行こうとしています。私たちは晩に庭で会っています。父親につれられてイギリスに行くというんです。それで私は、お祖父様《じいさま》に会って話してみようと考えました。別れるようなことがあれば、私はきっと気が変になります。死にます、病気になります、水に身を投げます。どうしても結婚しなければなりません。狂人《きちがい》になりそうですから。事実はそれだけです。言い落としたことはないつもりです。彼女はプリューメ街の鉄門のある庭に住んでいます。アンヴァリードの方です。」
ジルノルマン老人は、顔を輝かしてマリユスのそばにすわっていた。彼に耳を傾けその声音《こわね》を味わいながら、また同時にゆるゆるとかぎ煙草《たばこ》を味わっていた。ところがプリューメ街という一語を聞いて、彼は煙草をかぐのをやめ、煙草の残りを膝《ひざ》の上に落とした。
「プリューメ街! プリューメ街だな。……待てよ……その近くに兵営はないかね。……そうだ、それだ。お前の従兄《いとこ》のテオデュールがそのことを言っていた。あの槍騎兵《そうきへい》の将校だ。……いい娘、そう、いい娘だそうだ。……うむ、プリューメ街。昔はブローメ街と言った所だ。……ようやく思い出した。プリューメ街の鉄門の娘のことなら、わしも聞いたことがある。庭の中。パメラ([#ここから割り注]訳者注 リチャードソンの小説中の女主人公[#ここで割り注終わり])のような美人、お前の眼識は悪くない。きれいだという評判だ。ここだけの話だが、あの槍騎兵《そうきへい》のばかめも少しからかっているらしい。どれくらい進んだ話かわしは知らん。だがそんなことはどうでもいい。その上あいつの言うことはあてにならん。ほらをふくからな。マリユス、お前のような若い者が女を思うのはあたりまえだ。お前の年齢《とし》だからな。ジャコバン党より色男の方がわしは好きだ。ロベスピエールにつかまってるより、娘っ児につかまってる方がいい、何人いてもかまわん。わしにしたところで、確かに、革命家どものうちでも女だけは愛したものだ。美人はいつでも美人だからな。それに異論があるはず
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