[ットと言ってちょうだい。」
そして彼女が浮かべたほほえみは、その対話を天の森にもふさわしい牧歌となした。
またある時彼女は、彼をじっとながめて叫んだ。
「あなたはきれいね、美しいのね、才気があって、よく物がわかってて、私よりずっと学問があるのね。でも愛するって方じゃ私あなたに負けないわ。」
マリユスは蒼空《あおぞら》のうちに漂って、星に歌われる一節を聞くがように思った。
あるいはまた、彼が一つ咳《せき》をしたというので、彼女は軽くその肩をたたいて言った。
「咳をしてはいけないわ。私の家では私の許しを得ないで咳をすることはなりません。咳をして私に心配させちゃいやよ。私あなたの丈夫な方がいいの。なぜって、あなたが丈夫でないと私はほんとに心配ですもの。あなたが悪かったら私どうしましょう。」
それはただ聖なる言葉であった。
ある時、マリユスはコゼットに言った。
「ねえ、私は前には、あなたの名はユルスュールというのだとばかり思っていた。」
それでふたりは、その晩中笑い通した。
またある時、話の最中に、彼は突然叫び出した。
「ああ、ある日リュクサンブールで、私はひとりの老廃兵を踏みつぶしてやりたいことがあった!」
しかし彼はにわかに言葉を切って、もうその先を言わなかった。先を話せばコゼットに靴下留《くつしたど》めの一件を言わなければならなかったが、それは彼にはできなかった。まだ知らない方面が、肉体のことがそこにあって、この無垢《むく》な大なる愛は、一種の神聖な恐れをもってその前から退いた。
マリユスはそのようにしてただコゼットとふたりきりの生活を心にいだいていた。毎晩プリューメ街にやってき、あの法院長の鉄門のおかしな古い鉄棒を押し開き、石の腰掛けの上に相並んですわり、木立ちの間から暮れてゆく夜の微光をながめ、自分のズボンの膝《ひざ》の折り目とコゼットの長衣の広さとを交じえさせ、彼女の親指の爪《つめ》をいじり、彼女にへだてなく呼びかけ、互いに同じ花のかおりを永久に限りなく吸うのである。その間雲はふたりの頭の上を流れていた。そして吹く風も、空の雲より人の夢をより多く運んでいた。
そのほとんど臆病な貞節な愛にも、絶対に媚《こ》びが欠けてるのではなかった。愛する女に「やさしい口をきく」のは、愛撫《あいぶ》の最初の仕方であり、半ば思い切った行ないである。その会釈は、ヴェール越しの脣《くち》づけにも似たものである。肉感は身を隠しながらそこにやさしい跡を刻む。肉感の前に、心はなお深く愛せんために身を退く。マリユスの追従は、空想にまったく浸されていて、言わば空色に染められたようなものだった。小鳥が天使の方へ高く飛び行く時には、そういう言葉を聞くに違いない。けれどもそれには、生命と、人情と、マリユスのなし得るすべての積極的なこととが含まっていた。それは洞穴《どうけつ》の中で語らるべきものであり、寝所のうちで語らるべきものの序曲だった。叙情的な訴え、歌曲の一節と叙情短詩の交じったもの、鳩《はと》のやさしい飾り言葉、花束に編まれて美妙な天国のかおりを発する精練された欽慕《きんぼ》の言葉、心より心へ伝える得《え》も言えぬさえずりであった。
「おおあなたの美しいこと!」とマリユスはささやいた。「私はあなたを目でながめることができない。ただ心でながめてるだけだ。あなたは美の女神だ。私は自分で自分のことがわからない。あなたの長衣の下に、ちょっと靴《くつ》の先が見えるだけでも、私はもう自分をとり失ってしまう。心の中にあることをあなたが少し見せてくれる時、私にはどんなに美しい光がさすことだろう! あなたはほんとにみごとな言葉を言ってくれる。私には時々あなたが夢のように思えることがある。さあ何とか言っておくれよ。私はそれに耳を傾けて、あなたを賛美する。おおコゼット、何と不思議な心楽しいことだろう。私はまったく気も狂いそうだ。あなたは何という尊い人だろう。私はあなたの足を顕微鏡《むしめがね》で研究し、あなたの魂を望遠鏡《とおめがね》で研究しているんだよ。」
コゼットは答えた。
「私は今朝《けさ》から一時《ひととき》ごとにつのる思いであなたを愛しているのよ。」
こうした対話の中では、問いと答えとはあちこちに飛び移るが、いつもきまって愛の上に落ちてゆくのであった。あたかも自動人形が盤の中心に落ちてゆくがようなものである。
コゼットの全身は、無邪気と率直と透明と白色と純潔と光輝とであった。彼女は澄みきっているとも言えるほどだった。見る人の心に、四月の感じと曙《あけぼの》の感じとを与えるのだった。その目の中には露が宿っていた。彼女は曙の光が凝って女の形となってるものであった。
マリユスが彼女を欽慕《きんぼ》し彼女を崇拝したのは、きわめて当然のことだっ
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