ナある。しかし、雨と夜と飢えと不徳と欺瞞《ぎまん》と不正と裸体と窒息と厳冬などでできているこの広い灰色の靄《もや》の中を、行き、きたり、飛び回り、はい回り、のさばり歩き、奇怪に動き回ってるその恐るべき蟇《がま》の言語も、悲惨なる者らにとっては白日なのである。
懲戒を受けた者らに同情を持とうではないか。ああ、我々自身も果たして何であるか。これを語る私自身は何であるか。これを聞く汝ら自身は何であるか。我々はどこからきたのであるか。生まれる前にも何ら罪を犯さなかったと確言し得らるるか。この世は牢獄に似ているところがあるではないか。人は神の裁きを受けていないとは、だれが知ろう。
近寄って人生をながめるがいい。人生は至る所に刑罰を感ぜさせるようにできている。
汝は人に幸福といわるる身分であるか。しかも汝は毎日悲しんでいるではないか。一日には一日の大なる苦しみがあり、あるいはまた小さき心配がある。昨日は親しき者の健康について戦《おのの》き、今日はおのれの健康について気づかっている。明日は金銭上の心配、明後日は誹謗者《ひぼうしゃ》の陰口、次の日は友人の不幸が来る。次には天気のこと、その次には何かこわれた物や失《な》くした物のこと、その次には良心と背骨とから非難を受ける快楽のこと、あるいはまた世事の推移。加うるに内心の苦悶。かくして続いてゆく。一つの暗雲が晴るれば、また他の暗雲が生じてくる。百日のうちに一日とて、朗らかな喜びと朗らかな太陽とは得難い。しかもそれでいて汝は、少数の幸福なる人々のひとりである。他の人々は常に、深くよどんでる暗夜におおわれている。
深い考えを有する者らは、幸福なる者及び不幸なる者という言葉を余り使わない。この世においては、明らかに他の世界の入り口たるこの世においては、幸福なる者は存しない。
人間の真の区別はこうである、光明ある者と暗黒なる者と。
暗黒なる者の数を減じ光明ある者の数を増すこと、それがすなわち目的である。教育! 学問! と我々が叫ぶゆえんはそこにある。文字を学ぶは火を点ずることである。習得する各文字は光を放つ。
しかもなお、光明を説くは必ずしも喜悦を説くこととはならない。光明のうちにも苦しみがあり、また過度の光明は燃え上がる。炎は翼の敵である。翔《かけ》りつつ燃えること、そこに天才の不可思議がある。
知る時また愛する時、人はやはり苦しむ。明るみは涙のうちに生まれる。光明ある者は暗黒なる者の上にも涙を流す。
二 語根
隠語、それは暗黒なる者の言語である。
烙印《らくいん》を押されかつ反撥したるこの謎《なぞ》のごとき言葉に対する時、人の思想はその最も暗い深みにおいて刺戟され、社会哲学はその最も悲痛なる考慮を強《し》いられる。この言葉のうちにこそ目に見得る懲罰があるのである。各語は皆|烙印《らくいん》の跡を持ってるかと思われる。普通の言葉も皆ここでは、獄吏の赤熱した鉄の下に皺《しわ》を刻まれ焼き固められてるかと思われる。ある言葉はまだ煙を出してるがようである。ある文句は突然裸にされた盗賊の百合《ゆり》の花の烙印ある肩を見るような感がする。前科者たるそれらの名詞で言い現わされることは、いかなる思想もこれを喜ばないように見える。その比喩《ひゆ》はいかにも鉄面皮であって、あたかも鉄鎖につながれてるかと思われる。
けれども、そういうものであるにかかわらず、またそういうものであるがゆえに、この異様な特殊語は、黄金のメダルと共に錆《さび》くれ銭をも並べる公平無私な大書棚《おおしょだな》のうちに、すなわち文学といわるる大書棚のうちに、正当な場所を有するのである。世人が同意するかどうかは知らないが、隠語にもその語法と詩とがある。それは一つの言語である。ある単語の奇形なのを見ては、マンドラン([#ここから割り注]訳者注 有名な盗賊の頭領[#ここで割り注終わり])の歯にかまれたものであるかと思われるとしても、ある換喩の壮麗さを見ては、ヴィヨン([#ここから割り注]訳者注 中世の大詩人[#ここで割り注終わり])の口に上ったものであることが感ぜられる。
[#ここから4字下げ]
〔Mais ou` sont les neiges d'antan?〕
(さあれ去年の雪は今いずこ?)
[#ここで字下げ終わり]
という有名な詩句も、隠語の一句である。antan ―― ante annum ――というは、テューヌ団の隠語の一つであって、〔l'an passe'〕([#ここから割り注]昨年[#ここで割り注終わり])という意味であり、ひいては autrefois(昔)という意味になる。三十五年前、一八二七年囚人大護送の折りまでは、ビセートル監獄の地牢《ちろう》の一つに、徒刑に処せられたテューヌ団の一首領が壁上に釘
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