にやさしく答えた。
「いいえ。」
ジャン・ヴァルジャンはその悲しい調子にいら立ち、そのやさしい調子に心を痛めた。
まだ年若いがしかも既に見透かし難いこの精神のうちには何が起こったのか。いかなることが遂げられつつあったのか。コゼットの魂には何が到来しつつあったのか。時とするとジャン・ヴァルジャンは、寝もやらず寝床のそばにすわって両手に額をうずめ、そのまま一夜を明かしながら自ら尋ねた、「コゼットは何を考えているのだろう。」そしてコゼットが考えそうなことをあれこれと思いめぐらした。
そういう時に彼は、修道院生活の方へ、あの清浄なる峰、あの天使の住居、あの達すべからざる高徳の氷山の方へ、いかに悲しい目を向けたことか! 世に知られない花と閉じこめられた処女とに満ち、あらゆる香気と魂とがまっすぐに天の方へ立ちのぼっている、あの修道院の庭を、絶望的な喜悦をもって彼はいかに思いやったことか。自ら好んで去り愚かにもぬけ出してきたあの永遠に閉ざされたるエデンの園を、いかに彼は今賛美したことか。自分の献身のためにかえってつかまれ投げ倒されたあわれむべき犠牲の勇士たる彼は、コゼットを世に連れ戻した自分の克己と愚挙とを、いかに今後悔したことか。いかに彼は自ら言ったか、「何たることを自分はしたのであろう。」
けれどもそれらのことはコゼットに対しては少しも示されなかった。何らの不きげんも厳酷もなかった。常に朗らかな親切な同じ顔つきであった。ジャン・ヴァルジャンの様子には平素に増したやさしみと親愛さとがあった。もし彼の喜びが減じたことを現わすものがあるとすれば、それは彼の温良さが増したことであった。
コゼットの方は元気を失ってきた。彼女はただ何というわけもなく妙に、マリユスのいるのを喜んだと同様にまたマリユスのいないのを悲しく思った。ジャン・ヴァルジャンがいつもの散歩に連れて行ってくれなくなった時、女性の本能は心の底で彼女に漠然《ばくぜん》とささやいた、リュクサンブールに行きたいような様子をしてはいけないと、そしてまた、どうでもいいようなふうをしていたならば父は再び連れて行ってくれるであろうと。しかし日は過ぎ、週は過ぎ、月は過ぎた。ジャン・ヴァルジャンはコゼットの無言の承諾を暗黙のうちに受け入れていた。彼女はそれを後悔した。既に時機を失していた。彼女がリュクサンブールへ戻って行った時、マリユスはもうそこにいなかった。マリユスはいなくなってしまったのだ、万事は終わったのだ、どうしたらいいだろう? またいつか再び会えることがあるだろうか。彼女は心が痛むのを感じた、そしてそれは何物にも癒《いや》されることがなく、日ごとに度を増していった。彼女はもはや冬であるか夏であるかを知らず、日が照っているか雨が降っているかを知らず、小鳥がさえずっているかどうか、ダリアの季節であるか雛菊《ひなぎく》の季節であるか、リュクサンブールの園はテュイルリーの園よりも美しいかどうか、洗たく屋が持ってきたシャツは糊《のり》がききすぎているか足りないか、トゥーサンは「買い物」を上手《じょうず》にやったか下手《へた》にやったか、彼女にはいっさいわからなかった。そして彼女は打ちしおれ、魂を奪われ、ただ一つの考えにばかり心を向け、ぼんやりと一つ所に据わった目つきをして、幻が消え失せた跡の黒い深い場所を暗夜のうちに見つめてるかのようだった。
けれども、彼女の方でもまた、顔色の悪くなったことのほかは何事もジャン・ヴァルジャンに知れないようにした。彼女はやはり彼に対してやさしい顔つきをしてみせた。
しかしその顔色の悪いことだけで、ジャン・ヴァルジャンの心をわずらわすには余りあるほどだった。時とすると彼は尋ねた。
「どうしたんだい?」
彼女は答えた。
「どうもしませんわ。」
そしてちょっと黙った後、彼もまた悲しんでるのを彼女は察したかのように言った。
「そしてあなたは、お父様、どうかなすったのではありませんか。」
「私が? いや何でもないよ。」と彼は言った。
あれほどお互いのみを愛し合い、しかもあれほど切に愛し合っていたふたり、互いにあれほど長く頼り合って生きてきたふたりは、今やいずれも苦しみながら、互いに苦しみの種となりながら、互いにうち明けもせず怨みもせず、ほほえみ合っていたのである。
八 一連の囚徒
ふたりのうちでより多く不幸な方はと言えば、それはジャン・ヴァルジャンであった。青春の間は悲嘆のうちにあっても常に独特な光輝を有するものである。
おりおりジャン・ヴァルジャンはひどく心を苦しめて子供のようになることがあった。人の子供らしい半面を現わさせるのは、悲痛の特色である。彼はコゼットが自分から逃げ出そうとしているという感じを打ち消すことができなかった。彼はそれと
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