ではあったが自分に武器があることをよく感じていた。子供がナイフをもてあそぶように女は自分の美をもてあそぶ。そしてついには自ら傷つくものである。
 マリユスの躊躇《ちゅうちょ》や恐れや胸の動悸《どうき》などは、読者の記憶するところであろう。彼は自分のベンチに腰を据えて近寄ってゆかなかった。それはコゼットに不快を与えた。ある日彼女はジャン・ヴァルジャンに言った、「お父様、少し向こうへ歩いてみましょうか。」マリユスが少しも自分の方へこないのを見て、彼女は自分の方から彼の所へやって行った。こういう場合は、女は皆マホメットに似るものである。そして妙なことではあるが、真の恋の最初の兆候は、青年にあっては臆病《おくびょう》さであり、若い女にあっては大胆さである。考えると不思議ではあるが、しかし実は当然すぎることである。すなわち両性が互いに接近せんとして互いに性質を取り替えるからである。
 その日、コゼットの一瞥《いちべつ》はマリユスを狂気させ、マリユスの一瞥はコゼットを震えさした。マリユスは信念を得て帰ってゆき、コゼットは不安をいだいて帰っていった。その日以来、彼らは互いに景慕し合った。
 コゼットが最初に感じたものは、漠然《ばくぜん》とした深い憂愁だった。直ちに自分の心がまっくらになったような気がした。もう自分で自分の心がわからなくなった。年若い娘の心の白さは、冷淡と快活とから成ってるもので雪に似ている。その心は恋にとける、恋はその太陽である。
 コゼットは愛ということを知らなかった。現世的の意味で愛という言葉が言わるるのをかつて聞いたことがなかった。俗世の音楽書にあるアムール(愛)という音は、修道院の中にはいって行くとタンブール([#ここから割り注]太鼓[#ここで割り注終わり])もしくはパンドゥール([#ここから割り注]略奪者[#ここで割り注終わり])と代えられていた。「ああタンブールとはどんなにか楽しいことでしょう[#「ああタンブールとはどんなにか楽しいことでしょう」に傍点]!」とか、「憐愍《れんびん》はパンドゥールではありません[#「はパンドゥールではありません」に傍点]!」とかいうような言葉は、姉さま[#「姉さま」に傍点]たちの想像力を鍛う謎《なぞ》となっていた。しかしコゼットはまだごく若いうちに修道院を出たので、「タンブール」なんかにあまり頭を悩まさなかった。それで彼女は、今感じていることに何という名前を与えていいかわからなかった。しかし病名を自ら知らなければそれだけ病気が軽いといういわれはない。
 彼女は恋ということを知らずに恋しただけになおいっそうの情熱をもって恋した。それはいいものか悪いものか、有益なものか危険なものか、必要なものか致命的なものか、永遠なものか一時的なものか、許されたものか禁ぜられたものか、それを少しも知らなかった。そしてただ恋した。もしこう言われたら彼女は非常に驚いたであろう。「お前は夜眠れないって、それはよろしくない。お前は物が食べられないって、それはごく悪い。お前は胸が苦しかったり動悸《どうき》がしたりするって、そんなことがあってはいけない。黒い服を着たある人が緑の道の一端に現われると、お前は赤くなったり青くなったりするって、それはけしからんことだ。」彼女はそのゆえんがわからないでこう答えたであろう。「自分でどうにもできませんしまた何にもわかりませんのに、どうして私に悪いところがあるのでしょう?」
 彼女に現われてきた恋は、ちょうど彼女の心の状態に最も適したものだった。それは一種の遠方からの景慕であり、ひそかな沈思であり、知らぬ人に対する跪拝《きはい》であった。青春の前に現われた青春の幻であり、夢の状態のままでローマンスとなった夜の夢であり、長く望んでいた幻影がついに事実となって肉をそなえながら、しかもまだ名もなく不正もなく汚点もなく要求もなく欠陥もないままの状態にあるものだった。一言にして言えば、理想のうちに止まってる遠い恋人であり、一つの形体をそなえた空想であった。もっと具体的なもっと近接した邂逅《かいこう》であったなら、修道院の内気な靄《もや》の中にまだ半ば浸っていたコゼットを、初めのうち脅かしたことであろう。彼女は子供の恐怖と修道女の恐怖とをすべて合わせ持っていた。五年の間に彼女にしみ込んだ修道院的精神は、なお静かに彼女の一身から発散していて、あたりのものを震えさしていた。そういう状態にある彼女に必要なものは、ひとりの恋人ではなく、ひとりの愛人でもなく、一つの幻であった。彼女はマリユスを、光り輝いた非現実的な心ひかるるある物として景慕し始めたのである。
 極端な無邪気は極端な嬌態《きょうたい》に近い。彼女は彼にごく素直にほほえんでみせた。
 彼女は毎日散歩の時間を待ち焦がれ、散歩に行くとマリユ
前へ 次へ
全181ページ中42ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
ユゴー ヴィクトル の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング