べからざる汚辱の目には見えないがしかし重い鎖を引きずっており、また法律上放免されていない身の上であり、いつでも捕えられて人知れぬ徳行の世界から公然たる恥辱の白日のうちに引き出されんとする身の上であり、また、すべてを甘受し、すべてを許し、すべてを容赦し、すべてを祝福し、すべてのよからんことをねがい、しかも神や人や法律や社会や自然や世間に向かっては、ただ一事をしか求めていなかったのである、すなわちコゼットが自分を愛してくれるようにという一事を。
ただコゼットが自分を愛し続けてくれるように! この子供の心が自分のもとにやってきて長く留まっていることを、神は妨げたまわないように! コゼットから愛されて彼は、自ら癒《いや》され休められ慰められ満たされ報いられ冠を授けられたように感じていた。コゼットから愛されて彼は幸福であった。それ以上を何も求めなかった。「もっと幸福ならんことを望むか」と言う者があっても、「否」と彼は答えたであろう。「汝は天を欲するか」と神に言われても、「今の方がましである」と彼は答えたであろう。
そういう状態を傷つけるものは、たとい表面だけを少し傷つけるものであっても、何か新たなることが始まるかのように彼をおびえさした。彼はかつて婦人の美なるものが何であるかをよくは知らなかったけれども、ただ恐るべきものであることだけは本能によって了解していた。
自分のそばに、目の前に、子供の単純な恐るべき額の上に、ますます崇高に勢いよく開けてくるその美を、彼は自分の醜さと老年と悲惨と刑罰と憂悶《ゆうもん》との底から、狼狽《ろうばい》して見守った。
彼は自ら言った、「彼女《あれ》はいかにも美しい。この私はどうなるであろう。」
けだしそこに、彼の愛情と母親の愛情との差があった。彼が苦悶をもってながめていたところのものも、母親ならば喜びの情をもってながめたであろう。
最初の兆候はやがて現われ始めた。
コゼットが自ら「まさしく私は美しい」と言った日の翌日から、彼女は服装に注意を払い始めた。彼女は通行人の言葉を思い起こした、「きれいだ、しかし服装《なり》はよくない。」それは一陣の風のような神託であって、彼女の傍《かたわら》を過《よ》ぎり、やがて婦人の全生涯を貫くべき二つの芽の一つを彼女の心に残したまま、どこともなく消え去ってしまった。二つの芽の一つというは嬌態《きょうたい》であって、他の一つは恋である。
自分の美を信ずるとともに、女性的魂はすべて彼女のうちに目ざめてきた。彼女はメリノの長衣をいといペルシの帽子を恥ずかしく思った。父は彼女に決して何物をも拒まなかった。彼女はすぐに、帽子や長衣や肩衣や半靴《はんぐつ》や袖口《そでぐち》やまた自分に似合う[#「似合う」は底本では「以合う」]布地や色などに関するあらゆる知識を得た。その知識こそは、パリーの女をしていかにも魅力あらしめ趣深からしめまた危険ならしむるものである。妖婦[#「妖婦」に傍点]という言葉はパリーの女のために作り出されたものである。
一月とたたないうちに小さなコゼットは、バビローヌ街の人気《ひとけ》少ない所において、パリーの最もきれいな女のひとりとなっていたばかりでなく、それも既に何かではあるが、なおその上にパリーの「最もりっぱな服装《なり》をした」女のひとりとなっていた、これは実に大したことである。彼女は「あの通行人」に出会って、彼が何というかを聞いてみたく、また「彼に見せしめてやりたい」とも思ったかも知れない。実際彼女はすべての点において麗わしく、またジェラールの帽子とエルボーの帽子とをもみごとに見分けることができた。
ジャン・ヴァルジャンは心配しながらそれらの変化をながめていた。地をはうことよりほかは、少なくとも足にて歩くことよりほかは、自分にはできないと自ら感じていた彼が、コゼットに翼のはえてくるのを見たのである。
けれども女には、コゼットの服装をちょっと見ただけで、彼女に母のないことがわかったはずである。ある種の些細《ささい》な作法や、ある種の特別な慣例などを、コゼットは少しも守っていなかった。たとえば、母がいたならば、年若い娘は緞子《どんす》の服などを着るものではないと教えてやったに違いない。
始めて黒緞子の長衣と外套《がいとう》とをつけ白|縮紗《クレープ》の帽子をかぶって外に出かける時、コゼットは喜び勇み笑み得意げに嬉々《きき》としてジャン・ヴァルジャンの腕を執った。「お父様、」と彼女は言った、「こんな服装は私にどうでしょう?」ジャン・ヴァルジャンは苦々《にがにが》しいねたましいような声で答えた。「ほんとにいい。」そして散歩してる間彼はいつものとおりだったが、家に帰るとコゼットに尋ねた。
「あのも一つの長衣と帽子とはもうつけないのかい。」
それは
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