閨Aいっそう悲しいことがあるとすれば、それは薬屋から薬を買う金もないことである。ある晩、医者はごく高価な薬を命じた。その上、病気は重ってきて看護婦も必要だった。マブーフ氏は書棚を開いた。もう売るものは何にもなかった。最後の一冊もなくなっていた。残っているのは、ただディオゲネス[#「ディオゲネス」に傍点]・ラエルチオス[#「ラエルチオス」に傍点]だけだった。
 彼は世にまたとないその一冊の書物を腕にかかえて出かけていった。一八三二年六月四日だった。サン・ジャック市門のロアイヨルの後継者の家に行き、百フラン持って帰ってきた。そして年取った召し使いの枕頭《まくらもと》のテーブルに、五フラン貨幣をつみ重ね、一言も言わないで自分の室《へや》に戻った。
 翌日、夜が明けると、彼は庭の中に横たわってる標石に腰をおろしていた。額をたれ、しぼみはてた花床の上にぼんやり目を定めて、その朝中身動きもしないでいる彼の姿が、籬《まがき》越しに見られた。ときどき雨が降ったが、老人はそれに気もつかぬらしかった。午後になると、異常な響きがパリーの市中に起こった。小銃の音と群集の喊声《かんせい》とのようであった。
 マブーフ老人は頭を上げた。ひとりの園丁が通るのを見て彼は尋ねた。
「あれは何かね。」
 園丁は鍬《くわ》をかついだまま、きわめて平気な調子で答えた。
「暴動ですよ。」
「なに、暴動?」
「ええ。戦《いくさ》をしています。」
「何でまた戦をするんだ。」
「さあなんだか。」と園丁は言った。
「どっちの方だ。」
「造兵廠《ぞうへいしょう》の方です。」
 マブーフ老人は家に入り、帽子を取り、小わきにはさむべき書物を機械的にさがしたが、一冊もなかった。「ああそうだった!」と彼は言った。そして我を忘れた様子で出て行ってしまった。
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   第十編 一八三二年六月五日


     一 問題の表面

 暴動の要素は何であるか? 何もないとも言えるし、あらゆるものだとも言える。しだいに発してくる電気、突然ほとばしり出る炎、彷徨《ほうこう》してる力、過ぎゆく息吹《いぶき》、などからである。この息吹は、思索する頭、夢想する脳、苦しむ魂、燃え立つ熱情、喚《わめ》き立てる悲惨、などに出会って、それらを運び去る。
 どこへ?
 どこへというあてはない。国家や法律や他人の繁栄と横暴などをよぎって、どこ
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