ノディオゲネス・ラエルチオスの著書一冊、これは一六四四年にリオンで印刷されたもので、中には、ヴァチカンにある十三世紀物の第四一一の写本の有名な異文が掲げてあり、またヴェニスにある第三九三と第三九四との両写本の異文も掲げてあって、アンリ・エスティエンヌのみごとな校合の結果でき上がったものであり、それからまた、ナポリの図書館にある十二世紀物の有名な写本の中にしかないドリア語の全文もついている。かくてマブーフ氏はもう決して室《へや》に火をたかず、また蝋燭《ろうそく》を使わないようにと明るいうちから寝床にはいった。親しい者もなくなったかのようで、外出すればいつも人に避けられた。彼自身もそれに気づいていた。子供の難渋は母の心を動かし、若い男の難渋は若い娘の心を動かすが、老人の難渋はだれからも顧みられないものである。それはあらゆる困苦のうちでも最も冷たいものである。けれどもマブーフ老人は、子供のような清朗さをまったく失ってはいなかった。自分の蔵書を見る時には、眸《ひとみ》に多少の元気が現われ、世にただ一部きりないディオゲネス[#「ディオゲネス」に傍点]・ラエルチオス[#「ラエルチオス」に傍点]をながめる時には、顔に微笑が上った。ガラス戸のついてるその書棚は必要な品を除いては彼が残して置いた唯一の家具であった。
ある日、プリュタルク婆さんは彼に言った。
「夕御飯を買う金がありません。」
彼女が夕御飯と言ったのは、実は一片のパンと四つか五つかの馬鈴薯《ばれいしょ》とであった。
「後払《あとばら》いにしたら?」とマブーフ氏は言った。
「だれもそんなことをしてくれないのは御承知ではありませんか。」
マブーフ氏は書棚を開き、あたかも自分の子を一人犠牲にしなければならない父親がどれにしようかと大勢の子をながめるがように、蔵書を長い間かかって一つ一つながめ、それから急にその一冊を取り、それをわきにかかえ、そして出て行った、二時間たって彼は、小わきを空《から》にして帰ってき、テーブルの上に三十スーの金を置いて言った。
「これで夕飯をしたくしてくれ。」
その時からプリュタルク婆さんは、老人の清澄な顔の上に暗い影がさすのを見た。その影はついに再び晴れることがなかった。
翌日も、その翌日も、日々同じことをくり返さなければならなかった。マブーフ氏は一冊の書物を持って出かけてゆき、少しの金を手
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