ェの中に浮かべていた、テナルディエのこと、警察のこと、壁の上に書かれた不思議な一行の文字のこと、旅行のこと、旅行券を得るのに困難なこと。
そういうことで頭がいっぱいになってる最中に、彼は自分のすぐ後ろの土堤《どて》の頂にだれかがやってきて立ち止まったのを、日の光が投げたその影で見て取った。彼がふり向こうとした時、四つに折った一枚の紙が頭の上から落とされたように膝《ひざ》の上に落ちてきた。彼はその紙片を取り、それをひらくと、そこには鉛筆で大きく一語したためてあった。
[#天から4字下げ]引っ越せ[#「引っ越せ」に傍点]。
ジャン・ヴァルジャンは急いで立ち上がったが、土堤の上にはもうだれもいなかった。あたりを見回すと、鼠色《ねずみいろ》のだぶだぶした上衣を着、塵《ちり》によごれた綿ビロードのズボンをつけた、子供より大きく大人《おとな》よりは小さい一人の者が、柵《さく》をおどり越え、練兵場の溝《みぞ》の中にすべり込んでゆくのが見えた。
ジャン・ヴァルジャンは深く考え込んですぐに家へ帰った。
二 マリユス
マリユスはすべての望みを失ってジルノルマン氏の家から出てきた。はいってゆく時には一縷《いちる》の希望を持っていたが、出て来る時には深い絶望をいだいていた。
しかも、年若い者の心を観察したことのある人は了解するであろうが、あの槍騎兵《そうきへい》、将校、ばか者、従兄《いとこ》のテオデュールは彼の精神に何らの陰影をも残さなかった。少しの陰影をも残さなかった。孫に向かって祖父がだしぬけにもらしたその秘密から、戯曲家ならたいてい何かの紛乱を期待するかも知れない。しかし劇はそれでおもしろくなるかも知れないが、真実さは減じてくるに違いない。マリユスはまだ悪いことは何事をも信じない年配であった。すべてを信ずる年配はそのあとにしかやってこない。疑念は皺《しわ》にほかならない。年若い青春は皺を持たない。オセロを転倒させることもカンディードの上にはただすべりゆくのみである([#ここから割り注]訳者注 セークスピアの戯曲オセロ ヴォルテールの小説カンディード[#ここで割り注終わり])。コゼットを疑う! そういう事はマリユスにとっては多くの罪悪よりもなおなし難かったであろう。
彼は街路を歩き始めた。それは苦しむ者の普通のやり方である。彼は何か考えていたが、あとで思い
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