スいた。彼の目にはその老嬢も七、八歳の子供としか見えなかった。彼はまた激しく召し使いどもに平手を食わした、そして「このひきずり奴《め》が!」とよく言った。彼が口癖のののしり語の一つは、足が額にくっつこうとも[#「足が額にくっつこうとも」に傍点]というのだった。ある点について彼は妙に泰然としていた。毎日ある理髪屋に顔をそらせていた。その理髪屋はかつて気が狂ったことのある男で、愛嬌者《あいきょうもの》のきれいな上《かみ》さんである自分の女房のことについてジルノルマン氏を妬《や》いていたので、従って彼をきらっていた。ジルノルマン氏は何事にも自分の鑑識に自ら感心していて、自分は至って機敏だと公言していた。次に彼の言い草を一つ紹介しよう。「実際|私《わし》は洞察力《どうさつりょく》を持ってるんだ。蚤《のみ》がちくりとやる場合には、どの女からその蚤がうつってきたか、りっぱに言いあてることができる。」彼が最もしばしば口にする言葉は、多感な男[#「多感な男」に傍点]というのと自然[#「自然」に傍点]というのだった。この第二の方の言葉は、現代使われてるような広大な意味でではなかった。そして彼は炉辺のちょっとした風刺のうちに独特な仕方でそれを※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]入《そうにゅう》していた。彼は言った。「自然は、あらゆるものを多少文明に持たせるため、おもしろい野蛮の雛形《ひながた》までも文明に与えている。ヨーロッパはアジアやアフリカの小形の見本を持っている。猫《ねこ》は客間の虎《とら》であり、蜥蜴《とかげ》はポケットの鰐《わに》である。オペラ座の踊り子たちは薔薇《ばら》のような野蛮女である。彼女らは男を食いはしないが、男の脛《すね》をかじっている。というよりも、魔術使いだ。男を牡蠣《かき》みたいにばかにして、貪《むさぼ》り食う。カリブ人は人を食ってその骨だけしか残さない、だが彼女らはその殻だけしか残さない。そういうのがわれわれの風俗だ。われわれの方はのみ下しはしないが、かみつくのだ。屠《ほふ》りはしないが、引っかくのだ。」
二 この主人にしてこの住居あり
彼はマレーのフィーユ・デュ・カルヴェール街六番地に住んでいた。自分の家であった。この家はその後こわされて建て直され、パリーの各街路の番地変更の時にやはりその番地も変えられたはずである。当時彼はその二階の古い広い部屋に住んでいた。それは街路と庭とを両方に控え、ゴブランやボーヴェー製の牧羊の絵のついてる大きな布で天井までもすっかり張られていた。天井や鏡板《かがみいた》についてる画題は、小さくして肱掛椅子《ひじかけいす》にも施されていた。またその寝台は、コロマンデル製のラック塗りの大きな九枚折り屏風《びょうぶ》で囲まれていた。窓には長く広い窓掛けが下がっていて、いかにもみごとな大きな縮れ襞《ひだ》をこしらえていた。庭はすぐそれらの窓の下にあったが、愉快げに老人が上り下りする十二、三段の階段で角《かど》になってる一つの窓から、ことによく見られた。室に接している文庫のほかに、彼がごく大事にしてる納戸部屋《なんどべや》が一つあった。それはりっぱな小|室《へや》で、そこに張ってある素敵な壁紙には百合《ゆり》の花模様や種々な花がついていた。その壁紙は、ルイ十四世の漕刑場《そうけいじょう》でこしらえられたもので、王の情婦のためにヴィヴォンヌ氏が囚人らに命じて作らせたものだった。ジルノルマン氏はそれを、百歳も長寿を保って死んだ母方の大変な大叔母から譲り受けたのだった。彼は二度妻を持ったことがあった。彼の様子は朝臣と法官との中間に止まっていた。しかし彼はかつて朝臣であったことはないが、法官にはなろうとすればなれないこともなかったかも知れない。彼は快活であり、気が向けば人をいたわってやった。世には、最もふきげんな夫であるとともに最もおもしろい情人であるために、いつも妻からは裏切られるが決して情婦からは欺かれることのないような男がいるものだが、彼も若い頃はそういう男のひとりだった。彼は絵画の方面に鑑識があった。彼の室にはだれかのみごとな肖像が一つあった。ヨルダンスの手に成ったもので、荒い筆触で様々な細部まで描かれていて、乱雑にでたらめに書かれたものらしかった。ジルノルマン氏の服装は、ルイ十五世式でもなければ、ルイ十六世式でもなく、執政内閣時代の軽薄才子《アンクロアイヤブル》のような服装だった。彼はそれほど自分を若いと思っていて、その流行をまねたのだった。その上衣は軽いラシャで、広い折り襟《えり》と、長い燕尾《えんび》と、大きな鉄のボタンとがついていた。それに加うるに、短いズボンと留め金つきの靴《くつ》。そしていつも両手をズボンのポケットにつっ込んでいた。彼は堂々と言っていた、「フランス大革命は無頼漢どもの寄り合いだ[#「フランス大革命は無頼漢どもの寄り合いだ」に傍点]。」
三 リュク・エスプリ
十六歳の時に彼は、当時成熟していてヴォルテールから歌いはやされた有名なふたりの美形カマルゴー嬢とサレ嬢とから、同時に色目を使われるの光栄に浴した。そして両方の炎の間にはさまれて、勇ましい退却を行ない、ナアンリーという小さな踊り子の方へなびいていった。その娘は彼と同じ十六歳で、まだ子猫《こねこ》のように名も知られない者だったが、彼はそれに恋したのだった。彼はいつもその思い出をいっぱい持っていた。彼はよく叫んだ。「あのギマール・ギマルディニ・ギマルディネットは実にきれいだった。最後にロンシャンで会った時には、髪の毛を神々《こうごう》しくちぢらし、世にも珍しいトルコ玉の飾りをつけ、赤ん坊の頬《ほほ》の色のような長衣を引っかけ、ふさふさしたマッフを持っていた。」彼はまた青春の頃にナン・ロンドランのチョッキをつけてたことがあって、そのことを心ゆくばかり語っていた。「私は日の出る東《あずま》のトルコ人のような服を着ていた、」と彼はよく言った。二十歳のころ彼はふとブーフレル夫人に見られて、「ばかにかわいい人」と言われたことがあった。政治界や官界に現われてる名前は、どれもこれも皆下等で市民的であると言って憤慨していた。彼は新聞を、彼のいわゆる新報紙[#「新報紙」に傍点]だの報知紙[#「報知紙」に傍点]だのを、笑いをおさえながら読んでいた。彼はよく言った。「何という者どもだ、コルビエール、ユマン、カジミール・ペリエ、そういうのが大臣だって。まあ新聞に大臣ジルノルマン氏と書いてあるとしてごらん、おかしいだろうじゃないか。ところでまあ彼らときたら、結構それで通るくらいばかだからな。」彼は上品も下等もおかまいなしの言葉で何でも快活に言ってのけ、女の前であろうと少しもはばからなかった。野卑なこと、猥褻《わいせつ》なこと、不潔なこと、それを語るにも一種の落ち着きをもってし、風流の冷静さをもってした。まったく彼が属する前世紀の不作法さである。婉曲《えんきょく》なる詩の時代はまた生々《なまなま》しい散文の時代であったことは注意すべきである。彼の教父は、彼が他日天才になるだろうと予言して、次の意味深い二つの洗礼名を彼に与えていた、すなわちリュク・エスプリと([#ここから割り注]訳者注 使徒ルカ・精霊の意[#ここで割り注終わり])。
四 百歳の志願者
彼は子供の時、故郷のムーランの中学校で幾つかの褒賞《ほうしょう》をもらい、彼がヌヴェール公爵と呼んでいたニヴェルネー公爵の手から親しく授かった。国約議会も、ルイ十六世の処刑も、ナポレオンも、ブールボン家の復帰も、その褒賞の思い出を彼の心から消すことはできなかった。ヌヴェール公爵[#「ヌヴェール公爵」に傍点]は、彼にとっては時代の最も偉い大立て物だった。彼はよく言った。「何というりっぱな大貴族だったろう、あの青い大綬《たいじゅ》をつけられたところは何というみごとさだったろう!」ジルノルマン氏の目には、カテリナ二世はベステュシェフから三千ルーブルで黄金精液の秘法を買い取ったので、ポーランド分割の罪をつぐなったことになるのだった。彼は叫んだ。「黄金精液、ベステュシェフの黄色い薬、将軍ラモットの液、それは十八世紀では半オンス壜《びん》が一ルイ([#ここから割り注]二十フラン[#ここで割り注終わり])もしたものだ。恋の災厄に対する偉大な薬で、ヴィーナスに対する万能薬だ。ルイ十五世はその二百壜を法王に贈られたものだ。」もし彼に、その黄金精液は実は鉄の過塩化物にすぎないのだと言ったら、彼は非常に絶望し狼狽《ろうばい》したに違いない。ジルノルマン氏はブールボン家を賛美し、恐怖のうちに一七八九年を過ごした。そしていかなる方法で恐怖時代をのがれていたか、いかに多くの快活と機才とが首を切られないためには必要であったかを、彼は絶えず語っていた。もしある若い者が彼の前で共和政を賛美でもしようものなら、彼は顔の色を変え息もつけないほどにいらだつのだった。時とすると彼は自分の九十歳ということに関連さして、こんなことを言った。「私は九十三という年を二度と見たくない[#「私は九十三という年を二度と見たくない」に傍点]。」([#ここから割り注]訳者注 ルイ十六世の死刑が行なわれた一七九三年にかけた言葉[#ここで割り注終わり])しかしまたある時には、百歳までは生きるつもりだと人にもらしていた。
五 バスクとニコレット
彼は定説を持っていた。その一つは次のようなものだった。「もし人が熱烈に女を愛し、しかも自分には、醜い、頑固《がんこ》な、正当な、権利を有し、法律を楯《たて》にとり、場合によっては嫉妬《しっと》を起こすがような、あまり気に入らない正妻がある時には、それに処して平和なるを得る方法はただ一つあるのみである。すなわち、妻に財布のひもを任せることである。権利をすてて自由の身になるのだ。すると妻はその方に心を奪われ、貨幣の取り扱いに熱中し、指に緑青《ろくしょう》を染め、折半小作人や請作人を仕込み、代言人をよび、公証人を指揮し、弁護士をわずらわし、法官を訪れ、裁判を起こし、証書を作り、契約を書かせ、得意になり、売り、買い、計算し、命令し、約束し和解し、契約し取り消し、譲歩し譲与し還付し、整理し、混乱させ、蓄財し、浪費する。その他種々のばかなことを行ない、それが権柄的《けんぺいてき》なまた個人的な喜びとなり、それで自ら慰める。夫《おっと》から軽蔑されてる間に、夫を破産さして満足するものである。」この理論を彼は自分自身に適用し、自分の履歴とまでなっていた。彼の二番目の妻は、彼の財産をかなり賢く管理していたので、ある日彼女が死んだ時、彼には食べるだけのものが残っていた、すなわちほとんど全部を終身年金に預けて年収一万五千フランほどにはなった。がその大部分は彼とともに消え失せることになっていた。彼は別に驚きもしなかった、遺産を残すことなんかあまり考えてもいなかったから。それにまた、世襲財産はあぶなっかしいものであって、たとえば国有財産[#「国有財産」に傍点]になることもあるのを、彼は見てきたのだった。整理公債の変動に立ち会ってきたのだった。そして彼は公債大帳をあまり信用しなかった。「カンカンポア街の銀行だけじゃないか[#「カンカンポア街の銀行だけじゃないか」に傍点]、」と彼は言っていた。フィーユ・デュ・カルヴェール街の家は、前に言ったとおり自分のものであった。「牡《おす》と牝《めす》と」ふたりの雇い人がいた。新しい雇い人がやって来る時には、ジルノルマン氏は新たに洗礼名をつけてやるのを常とした。男の方にはその出生地の名前を与えた、ニモア、コントア、ポアトヴァン、ピカールなどと。最後の下男は、ふとってよぼよぼした息切れのする五十歳ばかりの男で、二十歩とは走れなかった。しかしバイヨンヌ生まれであるところから、ジルノルマン氏は彼にバスクという名前を与えていた([#ここから割り注]訳者注 ピレネー山間の剽悍なる民にバスク人というのがある[#ここで割
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