か金持ちの子供だったんだ。それまでにずいぶん金も送ってきた。俺はその娘を一生の食いものにするつもりでいたんだ。あの宿屋じゃあずいぶん損をしたんだが、その娘さえいりゃあどうにかなったろうというものだ。あんなつまらねえ宿屋ったらねえや、ぜいたくなばか騒ぎばかりしてさ、俺の方じゃあ能《のう》もなくすっかり食いつぶしてしまったからな。あああの店へきやがって酒を飲んだ奴《やつ》どもにゃあ酒がみな毒とでもなったらなあ! いやそんなこたあどうでもいいや。おいお前はな、あのアルーエットを連れて行く時には、俺を愚図とでも思って笑いやがったろうな。あの森の中では大きな棒を持っていやがったな。あの時はお前の方が強かったさ、だがこんどはそうはいかねえや。切り札は俺の方にあるんだ。お気の毒だがお前の方が負けだ。ははあおかしいや、ちゃんちゃらおかしいや。うまく罠《わな》に落っこちやがった。俺は言ってやったよ、俳優でございます、私はファバントゥーと申します、マルス嬢やムューシュ嬢といっしょに芝居をしたこともございます、二月四日に家主に金を払わなくてはなりませんとさ、それに奴《やっこ》さん少しも気がつかねえんだ、期限は二月四日じゃなくて一月八日になってるってことをな。ばか野郎め! そしてつまらねえフィリップ([#ここから割り注]訳者注 ルイ・フィリップ王の肖像がある二十フラン金貨[#ここで割り注終わり])を四つ持ってきやがった。恥知らずめ! せめて百フランでも持って来りゃあまだしもだ。だがまあうまく俺のおもしろくもねえ策に乗りやがった。ほんにおかしいや。俺《おれ》はひとりでこう言っていたんだ。『おばかさん、さあつかまえたぞ。今朝《けさ》はてめえの足をなめてやる、だが晩になってみろ、心臓までもしゃぶってやるからな。』」
 テナルディエはしゃべるのをやめた。彼は息を切らしていた。その小さな狭い胸は、鍛冶屋《かじや》の※[#「韋+鞴のつくり」、第3水準1−93−84]《ふいご》のように[#「※[#「韋+鞴のつくり」、第3水準1−93−84]《ふいご》のように」は底本では「鞴《ふいご》のように」]あえいでいた。その目は賤《いや》しい幸福の色に満ちていた。恐れていた者をついにうち倒し媚《こ》びていた者をついに侮辱してやったという残忍|卑怯《ひきょう》な弱者の喜びであり、巨人ゴライアスの頭を土足にかける侏儒《しゅじゅ》の喜びであり、もはや身を守り得ないほど死に瀕《ひん》してはいるがまだ苦痛を感ずるくらいの命はある病める牡牛《おうし》を、初めて引き裂きかけた豪狗《ごうく》の喜びである。
 ルブラン氏は彼の言葉を少しもさえぎらなかった。しかし彼が言いやめた時にこう言った。
「私には君の言うことがわからない。君は何か思い違いをしているようだ。私はごく貧しい者で、分限者なんかではない。私は君を知らない。だれかと人違いをしたのでしょう。」
「なんだと、白ばっくれるな。」とテナルディエはうめき出した。「冗談を言うない。ぐずぐずぬかしやがって、老耄《おいぼれ》めが。貴様、覚えていねえのか。俺がわからねえのか。」
「失礼だがわからない。」とルブラン氏は丁寧な調子で答えたが、それはかかる場合に何だか力強く妙に聞こえた。「君はどうも悪党らしいが。」
 人の知るとおり、嫌悪《けんお》すべき輩《やから》はすべていら立ちやすいものであり、怪物はすべて怒りやすいものである。悪党という言葉を聞いて、テナルディエの女房は寝台から飛びおり、テナルディエは握りつぶさんばかりに椅子《いす》をつかんだ。「じっとしてろ。てめえは!」と彼は女房に叫んだ。そしてルブラン氏の方へ向き直った。
「悪党だと! なるほどな、金のある奴《やつ》らは俺たちのことをそうぬかしやがる。なるほどそれに違えねえ。俺《おれ》は破産をし、身を隠し、食うものもねえし、金もねえし、それで悪党だ。もう三日というもの何にも口にしねえ、それで悪党だ。それに貴様らは、足を暖かくし、サコスキの上靴《うわぐつ》をはき、毛のはいった外套《がいとう》を着、大司教のような様子をし、門番のついた家の二階に住み、松露を食い、正月には四十フランもするアスパラガスを食いちらし、豌豆《えんどう》を食い、口一杯にほおばり、そして寒いかどうか知りてえ時には、シュヴァリエ技師の寒暖計がいくらさしてるか新聞で見やがる。だがな、本当の寒暖計は俺たちだ。時計台の角《かど》の河岸《かし》に出て、何度の寒さかを見にゆく必要はねえんだ。俺たちは脈の血が凍り心臓にも氷がはるのを感ずるんだ。そしては、神もねえのかって言うんだ。そういう時に貴様らは、俺たちの巣にやってきやがって、そうだ巣にやってきやがって、悪党だなんてぬかすんだ。だがな俺たちは、貴様らを食ってやるんだ。金持ちのちびども、貴様らを貪《むさぼ》り食ってやらあな。おい分限者さん、よく覚えておくがいい。俺はな、身分のある男だったんだ、免状を持っていたんだ、選挙の資格もあったんだ、りっぱな市民だったんだ、この俺がだぜ、ところが貴様にはそういうものが一つもねえんだろう、貴様にはな!」
 そこでテナルディエは扉《とびら》のそばに立ってる男どもの方へ一歩進んで身を震わしながら言った。
「人の所へきやがって、靴直《くつなお》しかなんぞにでも言うような口をききやがるんだぜ。」
 それからまた、更に怒り立ってルブラン氏の方へあびせかけた。
「そしてまたこういうことも覚えておいてもらおうぜ、慈善家さん! 俺《おれ》はな、後ろ暗え人間じゃねえんだ。名前を明しもしねえで人の家へ子供を取りに来るような者じゃねえんだ。俺はもとフランスの軍人だ、勲章でももらっていい人間だ。ワーテルローに行ってよ、何とかいう伯爵の将軍を戦争中に救ったんだ。名前をきかされたが、声が低くて聞き取れなかった。ありがとう[#「ありがとう」に傍点]というだけは聞こえた。そんな礼の言葉なんかより、名前を聞き取った方がよかったんだが。そうすればまた尋ね出すこともできようってわけさ。この絵はな、ブラッセルでダヴィドが描いたものなんだ。何が描いてあるかわかるか。この俺を描いたんだ。ダヴィドは俺の手柄を後の世まで残そうと思ったんだ。その将軍を背にかついで、弾丸《たま》の下をくぐって運んでゆくところだ。物語はざっとこのとおりさ。俺は何もその将軍に世話になっていたわけじゃねえ。他人も同様さ。それでも俺は生命を捨ててその人を助けた。その証明書はポケットに一杯あらあ。俺はワーテルローの名高い兵士だぞ。ところで、親切にそれだけ言ってきかしてやったからには、これでおしまいにしよう。つまり俺は金がほしいんだ。たくさんな金が、莫大《ばくだい》な金がほしいんだ。うんと言わなきゃあ、やっつけてしまうばかりだ、いいか。」
 マリユスは心の苦悩を多少おさえ得て、耳を傾けていた。そして最後の疑念もすべて消えてしまった。その男こそまったく、父の遺言にあるテナルディエだったのである。そしてテナルディエが父の忘恩を非難するのを聞き、自分は今や必然にその非難を至当のものたらしめんとしていることを思って、マリユスは身を震わした。彼の困惑はますます深くなった。その上、テナルディエの言葉、その語調、その身振り、一語ごとに炎をほとばしらすその目つき、またすべてを暴露する悪心の爆発、虚勢と卑劣と、傲慢《ごうまん》と丁重と、憤激と愚昧《ぐまい》とその混合、真実の苦情と虚偽の感情とのその混淆《こんこう》、暴戻《ぼうれい》の快感をむさぼる悪人らしいその破廉恥、醜い魂のその厚顔なる赤裸、あらゆる苦しみと憎しみとが結びついてるその火炎、すべてそれらのもののうちには、害悪のごとく嫌悪《けんお》すべきまた真理のごとく痛切なる何物かが存していた。
 大家の画面、テナルディエがルブラン氏に買ってくれと言い出したダヴィドの絵は、もう読者もほぼ察し得たであろうが、実は彼の宿屋の看板にほかならなかった。それは読者の記憶するとおり、彼が自分で描いたものであって、モンフェルメイュにおける失敗以来なお取って置いた唯一のものだった。
 ちょうどテナルディエの位置がマリユスの視線を妨げないようになったので、マリユスは今その絵らしいものをながめることができた。なるほどその塗りたくってある中に、戦争らしいありさまと、背景の煙と、ひとりの男をかついでる人間とが認められた。それがすなわちテナルディエとポンメルシーとのふたりで、救った軍曹と救われた大佐とである。マリユスは酒に酔ったがようだった。その画面は父がまだ生きてるような感を彼にいだかせた。もはやそれはモンフェルメイュの宿屋の看板ではなかった。一つの復活であり、墳墓はその口を開いて、幻影がそこに立ち現われた。マリユスは両の顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》に心臓の鼓動を聞いた。耳にはワーテルローの大砲の響きが聞こえ、気味悪いその板の上にぼんやり描かれてる血に染まった父の姿は、彼を脅かした。そして彼には、その怪しい幽霊が自分をじっと見つめてるように思われた。
 テナルディエは一息ついて、ルブラン氏の上に血走った瞳《ひとみ》をすえ、低いぶっきらぼうな声で言った。
「今貴様を踊らしてやる、だがその前に何か言うことがあるか。」
 ルブラン氏は黙っていた。その沈黙のうちに、しわがれ声の忌まわしい嘲《あざけ》りが廊下から響いた。
「薪《まき》でも割るなら俺《おれ》が行くぞ。」
 それはおもしろがってる斧《おの》を持った男だった。
 同時に、毛だらけの泥まみれの大きな顔が、歯というよりも牙《きば》を出してすごい笑いを浮かべながら、扉《とびら》の所からのぞき込んだ。
 斧を持ってる男の顔だった。
「どうして面を取ったんだ。」とテナルディエは怒って叫んだ。
「笑ってみてえからさ。」と男は答えた。
 ちょっと前からルブラン氏は、テナルディエの挙動に目をつけすきをうかがってるようだった。テナルディエの方は自分の憤激に目がくらみ、頭がくらんでいた。そして、扉には番がついているし、自分は武器を持ってるのに相手は無手であるし、女房をもひとりと数えれば相手はひとりにこちらは九人いるので、安心しきって室《へや》の中を歩き回っていた。斧の男に口をきく時には、ルブラン氏の方に背を向けた。
 ルブラン氏はその瞬間をとらえた。彼は椅子《いす》を蹴《け》飛し、テーブルをはねのけ、テナルディエがふり返る間もあらせず、驚くべき敏捷《びんしょう》さで一躍して窓の所へ達した。窓を開き、その縁に飛び上がり、それを乗り越すのは、一瞬間の仕事だった。彼は半ば窓の外に出た。その時六つの頑丈《がんじょう》な手が彼をつかみ、無理無体に彼を室の中に引きずり込んだ。彼の上に飛びかかったのは三人の「暖炉職工」だった。と同時に、テナルディエの女房は彼の頭髪につかみかかった。
 その騒ぎに、外の悪党どもも廊下からはいって来た。寝床の上にいた酒に酔ってるらしい老人も、寝台からおりて、手に道路工夫の金槌《かなづち》を持ってよろめきながら出て来た。
「暖炉職工」のひとりの顔は、蝋燭《ろうそく》の光に照らされていた。その塗りつぶした顔つきのうちにマリユスは、それがパンショー一名プランタニエ一名ビグルナイユであることを見てとった。その男が今や、鉄棒の両端に鉛の丸《たま》のついてる一種の玄翁《げんのう》をルブラン氏の頭めがけて振り上げた。
 マリユスはそれを見てもはや堪《こら》えることができなかった。「お父さん、許して下さい、」と彼は心に念じて、指先で、ピストルの引き金を探った。そして今や発射せんとした時、テナルディエの叫ぶ声がした。
「けがをさしてはいけねえ!」
 犠牲者の死物狂いの試みは、テナルディエを激させるどころかかえって落ち着かした。彼のうちには、獰猛《どうもう》な者と巧妙な者とふたりの人間がいた。そしてその時までは、勝利に酔い、取りひしがれて身動きもしない餌物《えもの》を前にして、獰猛な者の方が強く現われていた。しかるに犠牲者があばれ出して抵抗しかけた時に、巧妙
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