の後ろをふり返って見るのに彼は気づいた。そして心のうちに冷やりとして、逃げ出すか身を隠すかした。きっと自分の古い服を見て笑っているのだと彼は思った。しかし事実は、彼の様子のいいのを彼女らは見てあこがれてるのであった。
彼と通りがかりのきれいな娘らとの間のそういう暗黙の誤解から、彼は妙に頑《かたく》なになった。あらゆる女の前から逃げ出したので、結局彼はいずれの女かを選んでそれに近寄ろうとすることをしなかった。かくて彼はこれと定まりのない、クールフェーラックの言葉に従えば開けない、生活をしていたのである。
クールフェーラックはまた彼に言った。「そう聖人ぶろうとするなよ。(彼らはへだてのない言葉を使っていた。へだてのない言葉を使うのは青年の友情の特質である。)まあ僕の忠告でも聞けよ。そんなに書物ばかり読まないで、少しは女でも見てみろ。娘っ児も何かのためにはなるぜ、マリユス。逃げ出したり顔を赤くしたりしていると、ばかになっちまうぜ。」
またある時、クールフェーラックはマリユスに出会って言った。
「やあ今日は、牧師さん。」
クールフェーラックにそういうたぐいのことを言われると、その一週間ほどの間マリユスは、老若を問わず、いっさい女というものを前よりもいっそう避け、おまけにクールフェーラックをも避けた。
しかしながら広大な天地の間には、マリユスが逃げもしなければ恐れもしないふたりの女がいた。実を言うと、それでも女だと言われたら彼は非常に驚いたかも知れない。ひとりは彼の室《へや》を掃除《そうじ》してくれる髯《ひげ》のはえた婆さんだった。クールフェーラックをして、「女中が髯をはやしてるのを見てマリユスは自分の髯をはやさないんだ」と言わしめた、その婆さんだった。もひとりはある小娘で、彼はそれにしばしば出会ったがよく目を留めても見なかった。
もう一年以上も前からマリユスは、リュクサンブールの園のある寂しい道で、苗木栽培地《ペピニエール》の胸壁に沿った道で、ひとりの男とごく若い娘とを見かけた。ふたりはウエスト街の方に寄った最も寂しい道の片端に、いつも同じベンチの上に並んで腰掛けていた。自分の心のうちに目を向けて散歩している人によくあるように、別に何の気もなくほとんど毎日のように、マリユスはその道に歩み込んだ、そしてはいつもそこにふたりを見いだした。男は六十歳くらいかとも思われ、悲しそうなまじめな顔つきをしていて、退職の軍人かとも見える頑丈《がんじょう》なしかも疲れ切った様子をしていた。もし勲章でもかけていたら、「もとは将校だな」とマリユスに思わしたかも知れない。親切そうではあるがどこか近寄り難いところがあって、決して人に視線を合わせることをしなかった。青いズボンと青いフロックとをつけ、いつも新しく見える広い縁の帽子をかぶり、黒い襟飾《えりかざ》りをし、まっ白ではあるが粗末な麻のちょうどクエカー宗徒のようなシャツを着ていた。ある日ひとりの浮わ気女工がそのそばを通って、「身ぎれいな鰥夫《ひとりもの》だこと」と言った。頭髪はまっ白だった。
彼に連れられてきて、二人で自分のものときめたようなそのベンチに初めて腰掛けた時、娘の方はまだ十三、四歳であって、醜いまでにやせており、ぎごちなく、別に取りどころもなかったが、目だけはやがてかなり美しくなりそうな様子だった。けれどもただ、不快に思われるほどの厚かましさでいつもその目を上げていた。修道院の寄宿生に見るような同時に年寄りらしいまた子供らしい服装をして、黒いメリノラシャのまずい仕立て方の長衣をつけていた。ふたりは親子らしい様子だった。
まだそう老人とも言えぬその年取った男と、まだ一人前になっていないその小娘とに、マリユスは二、三日気を留めたが、それからもう何らの注意も払わなかった。彼らの方でも、マリユスに気づいているふうはなかった。いつも穏やかな平和な様子で互いに何か話していた。娘の方は絶えず快活に口をきいていた。老人の方は口数が少なく、時々何とも言えぬ親愛さを目の中にたたえて娘を見やっていた。
マリユスはいつしか機械的に、その道に歩みこむ癖になっていた。そしていつもそこで彼らに出会った。
そのありさまは次のようである。
マリユスはその道を通りかかる時、いつも好んで彼らのベンチがある方とは反対の端からやっていった。そしてずっと道をたどってゆき、ふたりの前を通り、それから後返って、やって来た方の端まで戻り、それからまた新たに同じことを初めるのだった。彼は散歩のうちにその往復を五、六回も続け、また一週間のうちにそういう散歩を五、六回はしたが、それでも彼らとはあいさつもかわさなかった。ところがその男と娘とは、人の目を避けてるらしかったけれども、いや反対に、人の目を避けてたがために、学校の帰りや撞球《たまつき》の帰りなどに時々|苗木栽培地《ペピニエール》のまわりを散歩する五、六人の学生から、自然に注意されるようになった。撞球の方の仲間であったクールフェーラックも、時々ふたりの姿を認めたが、娘がきれいでないのを見て、すぐにわざとそれを避けるようにした。そして彼はパルト人のように、逃げながらふたりに綽名《あだな》の槍《やり》をなげつけてしまった。娘の長衣と老人の頭髪とが特に目についたので、娘をラノアール(黒)嬢と呼び、父をルブラン(白)氏と呼んだ。もとよりふたりの身の上を知ってる者はなく名がわからなかったので、右の綽名《あだな》が一般に通用することになった。学生らは言った、「ああルブラン氏がベンチにきてる!」そしてマリユスも他の者らと同じく、便宜上その知らない人をルブラン氏と呼んでいた。
われわれもまた学生らと同じように、たやすく話を進めるために彼をルブラン氏と呼ぶことにしよう。
かくて最初の一年間マリユスは、ほとんど毎日きまった時間に彼らの姿を見た。彼にとっては、老人の方は多少好ましかったが、娘の方は一向おもしろくもなかった。
二 光ありき
物語がようやくここまで進んできた時、すなわちこの二年目に、マリユスのリュクサンブール逍遙《しょうよう》はちょっと中絶した。それは彼自身にもなぜだかよくわからなかったが、とにかく六カ月近くもその道に足を踏み入れなかった。ところがついにまたある日、彼はそこに戻っていった。さわやかな夏の朝のことで、晴れた日にはだれもそうであるがマリユスもごく愉快な気持ちになっていた。耳に聞こえる小鳥の歌や、木の葉の間からちらと見える青空などが、心の中にはいって来るかと思われた。
彼はまっすぐに「自分の道」へ行った。そしてその一端に達すると、あの見なれたふたりがやはりいつものベンチに腰掛けてるのを認めた。ところが近寄ってゆくと、老人の方は同じ人だったが、娘の方は人が変わってるように思えた。今彼の目の前にあるのは、背の高い美しい女で、大きくなりながらまだ幼時の最も無邪気な優美さをそなえてる時期であり、ただ十五歳という短い語によってのみ伝え得るとらえ難い純潔な時期であって、ちょうどその年頃の女の最も魅力ある姿をすべてそなえていた。金色の線でぼかされたみごとな栗色《くりいろ》の髪、大理石でできてるような額、薔薇《ばら》の花弁でできてるような頬《ほお》、青白い赤味、目ざめるような白さ、閃光《せんこう》のように微笑がもれ音楽のように言葉がほとばしり出る美妙な口、ラファエロが聖母マリアに与えたろうと思われるような頭と、その下にはジャン・グージョンがヴィーナスに与えたろうと思われるような首筋。そしてその愛くるしい顔立ちをなお完全ならしむるためには、鼻がまた美しいというよりもかわいいものだった。まっすぐでもなく、曲がってるでもなく、イタリー式でもギリシャ式でもなく、パリー式の鼻だった。言い換えれば何となく怜悧《れいり》そうで繊細で不規則で純潔であって、画家を困らせ詩人を喜ばせる類の鼻だった。
彼女のそばを通った時、彼はその目を見ることができなかった。その目はいつも下に向けられていた。影と貞純とのあふれてる長い栗色の睫毛《まつげ》だけが、彼の目にはいった。
それでもなおこの麗わしい娘は、自分に話しかける白髪の男に耳を傾けながらほほえんでいた。目を伏せながら浮かべるあざやかなその微笑ほど、愛くるしいものは世になかった。
初めのうちマリユスは彼女のことを、その男の別の娘で、前の娘の姉ででもあろうと思った。しかし、いつもの逍遙《しょうよう》の癖から二度目にベンチに近寄った時、注意深く彼女をながめた時、彼はそれがやはり同じ人であることを認めた。六カ月のうちに小娘は若い娘となった、ただそれだけのことだった。そういうことは最も普通に起こる現象である。またたくまにほころんでたちまちに薔薇の花となってしまうような時期が、女の子にはある。昨日までは子供として気にも留めないが、今日はもはや気がかりなしには見られないようになる。
さてその娘は、ただに大きくなったばかりではなく、理想的になっていた。四月にはいれば世の中は三日見ぬ間に桜となるように、六カ月で彼女には美を着飾るに足りたのである。彼女の四月がきたのであった。
貧乏で憔悴《しょうすい》していた人が、目ざむるようににわかに窮迫から富裕となり、あらゆる金使いをして、たちまちにぜいたくにみごとにまばゆきまでになるのは、世に時として見らるることである。それは金が舞い込んできたからである、期限の金を昨日受け取ったからである。その若い娘もその定期金を受け取っていたのである。
そしてまた彼女は、フラシ天の帽子やメリノの長衣や学校靴《がっこうぐつ》や赤い手などをしていなくて、もう寄宿生らしいところはなかった。美とともに趣味も生じたのである。別に取り繕った様子もないが、さっぱりした豊かな優美さをそなえた服装《みなり》をしていた。黒い緞子《どんす》の長衣と同じ布の肩衣と白い縮紗《クレープ》の帽子をつけていた。支那|象牙《ぞうげ》の日がさの柄をいじってる手は、白い手袋を通していかにも繊細なことが察せられ、絹の半靴はその足の小さいことを示していた。近くを通ると、その全身の粧《よそお》いからは若々しいしみ通るようなかおりが発していた。
老人の方は前と何の変わりもなかった。
二度目にマリユスが近寄った時、娘は眼瞼《まぶた》を上げた。その目は深い青空の色をしていた。しかしその露《あら》わでない青みのうちには、まだ子供の目つき以外に何物もなかった。彼女は無関心にマリユスをながめた。あたかもシコモルの木の下を走る小猿《こざる》をでも見るがようで、またはベンチの上に影を投げてる大理石の水盤をでも見るがようだった。そしてマリユスの方でも、もう他の事を考えながら逍遙《しょうよう》を続けた。
彼は娘がいるベンチのそばをなお四、五度は通ったが、その方へ目も向けなかった。
それからまた毎日のように、彼は例によってリュクサンブールにき、例のとおり「父と娘」とをそこに見い出した。しかしもうそれを気に留めなかった。その娘が美しくなった今も、醜くかった以前と同じく、彼は別に何とも考えなかった。彼はやはり、彼女が腰掛けてるベンチのすぐそばを通っていた。それが彼の習慣となっていた。
三 春の力
空気の温暖なある日、リュクサンブールの園は影と光とにあふれ、空はその朝天使らによって洗われたかのように清らかであり、マロニエの木立ちの中では雀《すずめ》が小さな声を立てていた。マリユスはその自然に対して心をうち開き、何事も考えず、ただ生きて呼吸を続けてるのみで、あのベンチのそばを通った。その時あの若い娘は彼の方へ目を上げ、ふたりの視線が出会った。
こんどは若い娘の視線の中に何があったか? マリユスもそれを言うことはできなかったであろう。そこには何物もなかった、またすべてがあった。それは不思議な閃光《せんこう》であった。
彼女は目を伏せ、彼は逍遙を続けた。
今彼が見たところのものは、子供の率直単純な目ではなかった。半ば開いてまたにわかに閉じた神秘な淵《ふち
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