ぎった、「何とかうまい賛辞のうちにブロンドーをお陀仏《だぶつ》にしてやりたいんだ。奴を死んだ者と仮定する。元来やせてはいるし、顔色は青白いし、冷たいし、硬《こわ》ばってるし、変な臭《にお》いがするし、死んだところで大した変わりはないだろう。そこで僕はこう言ってやろう。――爾《なんじ》地を裁く者よ思い知れ[#「地を裁く者よ思い知れ」に傍点]。この所にブロンドー横たわる、鼻のブロンドー、ブロンドー・ナジカ(鼻ブロンドー)、規則の牡牛《おうし》、ボス・ディシプリネ(規則牛)、命令の番犬、点呼の天使、彼は実にまっすぐであり、四角であり、正確であり、厳正であり、正直であり、嫌悪《けんお》すべきものなりき。わが名を彼が消したるがごとく、彼の名を神は消したまえり。」
 マリユスは言った。
「僕はまったく……。」
「青年よ、」とレーグル・ド・モーは続けて言った、「これは汝の教えとならんことを。以来は必ずきちょうめんなれ。」
「何とも申し訳がない。」
「汝の隣人をして再び名を消さるるに至らしむることなかれ。」
「僕は何とも……。」
 レーグルは笑い出した。
「そして僕は愉快だ。も少しで弁護士になるところだったが、その抹殺で救われたわけだ。弁護士などという月桂冠《げっけいかん》はおやめだ。これで後家の弁護もしなくていいし、孤児を苦しめることもしなくてすむ。弁護士服もおさらばだ、見習い出勤もおさらばだ。いよいよ除名が得られたわけだ。そして皆君のおかげだ。ポンメルシー君。改めて感謝の訪問をするつもりでいる。君はどこに住んでるんだ。」
「この馬車の中だよ。」とマリユスは言った。
「ぜいたくなわけだね。」とレーグルは平気で答えた。「君のために祝そう。そこにいたら年に九千フランは家賃を払わなきゃなるまいね。」
 その時クールフェーラックが珈琲《コーヒー》店から出てきた。
 マリユスは寂しげにほほえんだ。
「僕は二時間前からこの借家にいるんだが、もう出ようと思ってる。だがよくあるような話で、どこへ行っていいかわからないんだ。」
「君、」とクールフェーラックは言った、「僕の家にきたまえ。」
「僕の方に先取権はあるんだが、」とレーグルは言葉をはさんだ、「悲しいかな自分の家というのがないからな。」
「黙っておれよ、ボシュエ。」とクールフェーラックは言った。
「ボシュエだと、」とマリユスは言った、「君はレーグルというんじゃなかったかね。」
「そしてド・モーだ。」とレーグルは答えた。「変名ボシュエ。」
 クールフェーラックは馬車にはいってきた。
「御者、」と彼は言った、「ポルト・サン・ジャックの宿屋だ。」
 そしてその晩、ポルト・サン・ジャックの宿屋の一室に、クールフェーラックの隣室に、マリユスは落ち着いた。

     三 マリユスの驚き

 数日のうちに、マリユスはクールフェーラックの親友となってしまった。青年時代にはすぐに親密になり、受けた傷もたちまちなおるものである。マリユスはクールフェーラックのそばにいて自由な空気を呼吸した。それは彼にとってまったく新奇なことだった。クールフェーラックは彼に何も尋ねはしなかった。そんなことは考えもしなかった。そのような年ごろでは、顔つきを見れば直ちにすべてが看取されるものである。言葉なぞは無用である。顔がおしゃべりをするという青年が世にはいる。互いに顔を見合わせれば、互いに心がわかってしまう。
 けれどもある朝、クールフェーラックは突然彼にこういう問いを発した。
「時に君は何か政治的意見を持ってるかね。」
「何だって!」とマリユスはその問に気を悪くして言った。
「君は何派だと言うんだ。」
「民主的ボナパルト派だ。」
「鼠色《ねずみいろ》のおとなしい奴《やつ》だな。」とクールフェーラックは言った。
 翌日、クールフェーラックはマリユスをミューザン珈琲《コーヒー》店に導いた。それから彼は、微笑を浮かべてマリユスの耳にささやいた、「僕は君を革命に巻き込んでやらなけりゃならない。」そして彼をABCの友の室《へや》へ連れて行った。彼はマリユスを仲間の者らに紹介して、低い声で「生徒だ」とただ一言言った。マリユスにはそれが何の意味だかわからなかった。
 マリユスは多くの精神の蜂《はち》の巣の中に落ち込んだ。もとより彼は無口で沈重であったが、飛ぶべき翼もなく戦うべき武器も持たない人間ではなかった。
 マリユスはその時まで孤独で、習慣と趣味とによって独語と傍白とに傾いていたので、まわりに飛び回ってる青年らにいささか辟易《へきえき》した。それら種々のはつらつたる若者は、同時に彼を襲い彼を引っ張り合った。自由と活動とのうちにあるそれら精神の入り乱れた騒ぎを見ては、彼の思想は旋風のように渦《うず》をまいた。時とするとその思想は混乱して、遠く逃げ去って再び取り戻し得ないかとも思われた。哲学、文学、美術、歴史、宗教、すべてが思い設けないやり方で語られるのを彼は聞いた。彼は不思議な境地を瞥見《べっけん》した。そして適当な視点に置いてそれらを見なかったので、何だか渾沌界《こんとんかい》を見るような心地だった。彼は父の意見に従うために祖父の意見をすてて、自ら心が定まったと思っていた。しかるに今や、まだ心が定まってはいないのではないかという気がして、不安でもあるがまたそう自認もできかねた。今まですべてのものを見ていた角度は、再びぐらつき初めた。一種の震動が彼の頭脳の全世界を動揺さした。内心の不可思議な動乱であった。彼はそれにほとんど苦悩を覚えた。
 その青年らには、「神聖にされたるもの」は一つもないがようだった。あらゆることについて独特な言をマリユスは聞いた。それはまだ臆病《おくびょう》な彼の精神にはわずらいとなった。
 いわゆるクラシックの古い興行物の悲劇の題が書いてある芝居の広告が出ていた。「市民らが大事にしてる悲劇なんぞやめっちまえ!」とバオレルは叫んだ。するとコンブフェールが次のように答えるのをマリユスは聞いた。
「バオレル、君はまちがってる。市民階級は悲劇を愛するものだ。この点だけはほうっておくがいい。鬘《かつら》の悲劇にも存在の理由がある。僕はアイスキロスを持ち出してその存在の権利を否定する輩《やから》ではない。自然のうちには草案があるんだ。創造のうちにはまったく擬作の時代があるんだ。嘴《くちばし》でない嘴、翼でない翼、蹼《みずかき》でない蹼、足でない足、笑いたくなるような悲しい泣き声、そういうもので家鴨《あひる》は成り立ってる。そこで、家禽《かきん》が本当の鳥と並び存する以上は、クラシックの悲劇も古代悲劇と並び存していけないはずはない。」
 あるいはまた偶然、マリユスはアンジョーラとクールフェーラックとの間にはさまって、ジャン・ジャック・ルーソー街を通った。
 クールフェーラックは彼の腕をとらえた。
「いいかね。これはプラートリエール街だ。しかるに六十年ほど前に一風変わった家族が住んでいたために、今日ではジャン・ジャック・ルーソー街と名づけられてる。その家族というのは、ジャン・ジャックとテレーズだった。時々そこでは赤ん坊が生まれた。テレーズがそれを生むと、ジャン・ジャックがそれを捨ててしまった。」
 すると、アンジョーラはクールフェーラックを肱《ひじ》でつっついた。
「ジャン・ジャックに対しては黙っていたまえ。僕はその男を賛美しているんだ。彼は自分の子を打ち捨てはしたさ。しかし彼は民衆を拾い上げたじゃないか。」
 その青年らはだれも、「皇帝」という言葉を口にしなかった。一人ジャン・プルーヴェールだけは時々ナポレオンと言った。ほかの者らは皆ボナパルトと言っていた。アンジョーラはブオナパルト[#「ブオナパルト」に傍点]と発音していた。
 マリユスは漠然《ばくぜん》と驚きを感じた。知恵のはじめなり[#「知恵のはじめなり」に傍点]。([#ここから割り注]訳者注 神を―帝王を―恐るるは知恵のはじめなり[#ここで割り注終わり])

     四 ミューザン珈琲《コーヒー》店の奥室

 それらの青年らの会話には、マリユスもい合わしまた時々は口出しをしたが、そのうちの一つは、彼の精神に対して真の動揺を及ぼした。
 それはミューザン珈琲店の奥室で行なわれた。その晩、ABCの友のほとんど全部が集まっていた。燈火は煌々《こうこう》とともされていた。人々は激せずしかも騒々しく、種々なことを話していた。沈黙してるアンジョーラとマリユスとを除いては、皆手当たりしだいに弁じ立てていた。仲間同士の話というものは、しばしばそういう平和な喧騒《けんそう》をきたすものである。それは会話であると同時にカルタ遊びであり混雑であった。人々は言葉を投げ合っては、その言葉じりをつかみ合っていた。人々は方々のすみずみで話をしていた。
 だれも女はこの奥室に入るのを許されていなかった。ただルイゾンという珈琲皿を洗う女だけは許されていて、時々洗い場から「実験室」(料理場)へ行くためにそこを通っていた。
 すっかりいい気持ちに酔ってるグランテールは、一隅《いちぐう》に陣取ってしゃべり立てていた。彼は屁理屈《へりくつ》をこね回して叫んでいた。
「ああ喉《のど》がかわいた。諸君、僕には一つの望みがあるんだ。ハイデルベルヒの酒樽《さかだる》が中気にかかって、蛭《ひる》を十二匹ばかりそれにあてがってやりたいというんだ。僕は酒が飲みたい。僕は人生を忘れたい。人生とはだれかが考え出したいやな発明品だ。そんなものは長続きのするものではない、何の価もあるものではない。生きることにおいて人は首の骨をくじいている。人生とは実際の役に立たない飾り物だ。幸福とは片面だけ色を塗った古額に過ぎない。伝道之書は言う、すべて空《くう》なり。おそらくかつて存在しなかったかも知れないその善人と、僕は同様の考えを持っている。零《ゼロ》はまっ裸で歩くことを欲しないから、虚栄の衣をまとうのだ。おお虚栄! 仰山な言葉ですべてに衣を着せたもの、台所は実験室となり、踊り児は先生となり、道化者は体育家となり、拳闘家《けんとうか》は闘士となり、薬局の小僧は化学者となり、鬘師《かつらし》は美術家となり、泥工は建築師となり、御者は遊猟者となり、草鞋虫《わらじむし》は翼鰓虫となる。虚栄には表裏両面がある。表面は愚で、ガラス玉をつけた黒人《くろんぼ》だ。裏面はばかで、ぼろをつけた哲学者だ。僕は前者を泣き、後者を笑う。名誉とか威厳とか言われるもの、名誉および威厳そのものも、一般に人造金でできてるに過ぎない。国王は人間の自尊心を玩具《おもちゃ》にしてるんだ。カリグラは馬を督政官にした。シャール二世は牛肉を騎士にした。ゆえに諸君は、督政官インシタツスと従男爵ローストビーフ([#ここから割り注]訳者注 前者は馬、後者は焼き肉[#ここで割り注終わり])との間をいばり歩くべしだ。人間の真価に至っては、もはやほとんど尊敬さるる価値がなくなってる。隣同士の賛辞をきいてみたまえ。白に白を重ねるとひどいことになる。白百合《しろゆり》が口を開くとすれば、いかに鳩《はと》のことを悪口するだろうか。狂信者をそしる盲信者は、蝮蛇《まむし》や青蛇《あおへび》よりももっと有害な口をきく。僕が無学なのは残念なわけだ。種々たくさん例をあげたいが、僕は何にも知らない。だが僕は常に機才を有していたんだ。グロの弟子《でし》になっていた時には、雑画を書きなぐるよりも林檎《りんご》を盗んで日を送ったものだ。ラパン(下手画工)はラピーヌ(奪略)の男性だ。僕はそれだけの人間だ。しかし君らだって僕と同じようなものさ。僕は諸君の完全無欠や優越や美点を何とも思わない。すべての美点は欠点のうちに投げ込まれるものだ。倹約は吝嗇《りんしょく》に近く、寛大は浪費に接し、勇気はからいばりに隣する。きわめて敬虔《けいけん》なことを云々《うんぬん》する者は、多少迷信的な言葉を発するものだ。ディオゲネスの外套《がいとう》に穴があると同じく、徳の中にもまさしく悪徳がある。諸君はいずれを賛美するか、殺されたる者と殺し
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