永久に残存する。一民衆を盗むの罪は、時効にかかって消滅するものではない。それら莫大なる詐欺取財は、未来に長く続くものではない。国民はハンカチのように模様を抜き去られるものではない。
クールフェーラックは、ド・クールフェーラック氏と言われる父を持っていた。王政復古の中流階級が貴族または華族ということについていだいている愚かな考えの一つは、実にこの分詞のド[#「ド」に傍点]という一字を貴重がったことである。人の知るとおり、この分詞には何らの意味もない。しかし、ミネルヴ[#「ミネルヴ」に傍点]時代([#ここから割り注]訳者注 王政復古の初期[#ここで割り注終わり])の市民らはこの下らないド[#「ド」に傍点]の文字をあまりに高く敬っていたので、それを廃止しなければならないと思われるほどになった。かくてド・ショーヴラン氏はただショーヴランと呼ばせ、ド・コーマルタン氏はコーマルタンと、ド・コンスタンド・ルベック氏はバンジャマン・コンスタンと、ド・ラファイエット氏はラファイエットと呼ばせるに至った。クールフェーラックもそれにおくれを取るまいとして、ただ簡単にクールフェーラックと自ら呼んだのである。
クールフェーラックについては、それだけでほとんど十分である。そしてただ、クールフェーラックならばまずトロミエスを見よ、と言うだけに止めておこう。
実際クールフェーラックは、機才めの美とも称し得る若々しい元気を持っていた。ただ後になるとそういうものは、小猫のやさしさがなくなるように消え失せてしまい、その優美さも二本の足で立てば市民となり、四本の足で立てば牡猫《おすねこ》となるものである。
かかる種類の精神は、代々の学生に、代々の若々しい芽に、相次いで伝えられ手から手へ渡りゆき、競争者[#「競争者」に傍点]のごとくに走り回り、そして常に何らの変化をもほとんど受けないものである。かくして、前に述べたとおり、一八二八年のクールフェーラックの言うことを聞く者は、一八一七年のトロミエスの言うことを聞く思いがするであろう。ただクールフェーラックは善良な男であった。見たところ外部的の精神は同じであるが、彼とトロミエスとの間には大なる差違があった。彼らのうちに潜在している人間は、前者と後者とではひどく異なっていた。トロミエスのうちには一人の検事があり、クールフェーラックのうちには一人の洒落武士《しゃれぶし》があった。
アンジョーラは首領、コンブフェールは指導者、クールフェーラックは中心であった。他の二者がより多く光明を与えたとすれば、彼はより多く温熱を与えた。実際、彼は中心たるすべての特長、丸みと喜色とを持っていたのである。
バオレルは一八二二年六月の血腥《ちなまぐさ》い騒動の時、若いラールマンの葬式のおりに顔を出したことがあった。
バオレルはいつも上きげんで、悪友で、勇者で、金使いが荒く、太っ腹なるまでに放蕩者《ほうとうもの》で、雄弁なるまでに饒舌《じょうぜつ》で、暴慢なるまでに大胆であった。最も善良なる魔性の者であった。大胆なチョッキをつけ、まっかな意見を持っていた。偉大なる騒擾者《そうじょうしゃ》、言いかえれば、騒乱のない時には喧嘩《けんか》ほど好きなものはなく、革命のない時には騒乱ほどの好きなものはなかった。いつでも窓ガラスをこわしたり、街路の舗石《しきいし》をめくったり、政府を顛覆《てんぷく》したりすることをやりかねない男で、そういうことをして結果を見たがっていた。十一年間も大学にとどまっていた。法律のにおいをかいだが、それを大成したことはなかった。「決して弁護士にならず[#「決して弁護士にならず」に傍点]」というのをモットーとし、寝床側のテーブルを戸棚とし、その中に角帽が見えていた。法律学校の前に現れることはまれだったが、そういう時はいつも、ラシャ外套《がいとう》はまだ発明されていなかったので、フロックのボタンをよくかけて衛生上の注意をしていた。学校の正門について、「何というひどい老いぼれ方だ!」と言い、校長のデルヴァンクール氏について、「何という記念碑だ!」といっていた。講義のうちに歌の材料を見つけたり、教授らのうちに漫画の種を見いだしたりしていた。かなり多額な学資、年に三千フランほども、くだらないことに費やしてしまった。彼には田舎者《いなかもの》の両親があったが、その親たちに自分を深く尊敬させるような術を心得ていた。
彼は両親のことをこう言っていた。「彼らは田舎者で、市民ではない。だからいくらか頭があるんだ。」
気まぐれなバオレルは、多くのカフェーに出入りした。他の者はどこかなじみの家を持っていたが、彼はそんなものを持たなかった。彼はやたらに彷徨《ほうこう》した。錯誤は人間的で、彷徨はパリーっ児的である。彼の奥底には洞察力があり、見かけによらぬ思索力があった。
彼はABCの友と、未だ成立しないが早晩形造られるべき他の団体との間の、連鎖となっていた。
それら青年の集会所のうちには、ひとり禿頭《はげあたま》の会員がいた。
ルイ十八世が国外に亡命せんとする日、それを辻馬車《つじばしゃ》の中に助け入れたので公爵となされたアヴァレー侯爵が、次のような話をした。一八一四年、フランスに戻らんとして王がカレーに上陸した時、ひとりの男が王に請願書を差し出した。「何か望みなのか、」と王は言った。「陛下、郵便局が望みでござります。」「名は何という?」「レーグルと申します。」
王は眉《まゆ》をひそめ、請願書の署名をながめ、レグルと書かれた名を見た。このいくらかボナパルト的でない綴字《つづりじ》に([#ここから割り注]訳者注 レーグルとは鷲の意にしてナポレオンの紋章[#ここで割り注終わり])王は心を動かされて、微笑を浮かべた。「陛下、」と請願書を差し出した男は言った、「私には、レグール([#ここから割り注]訳者注 顎の意[#ここで割り注終わり])という綽名《あだな》を持っていました犬番の先祖がありまして、その綽名が私の名前となったのであります。私はレグールと申します。それをつづめてレグル、また少しかえてレーグルと申すのであります。」それで王はほほえんでしまった。後に、故意にかあるいは偶然にか、王は彼にモーの郵便局を与えた。
禿頭《はげあたま》の会員は、実にこのレグルもしくはレーグルの息子で、レーグル(ド・モー)と署名していた。彼の仲間は、手軽なので彼をボシュエと呼んでいた。
ボシュエは、不幸を有する快活な男であった。彼の十八番《おはこ》は、何事にも成功しないことだった。それでかえって彼は何事をも笑ってすましていた。二十五歳にして既に禿頭だった。彼の父は一軒の家屋と一つの畑とを所有するに至った。しかしその息子たる彼は、投機に手を出したのがまちがいの元で、まっさきにその家と畑とをなくしてしまった。それでもう彼には何物も残っていなかった。彼は学問があり才があったが、うまくゆかなかった。すべての事がぐれはまになり、すべてのことがくい違った。自分でうち立てるすべての物が、自分の上にくずれかかった。木を割れば指を傷つける、情婦ができたかと思えばその女には他にいい人があるのを間もなく発見する。始終何かの不幸が彼に起こってきた。そういうところから彼の快活が由来したのである。彼は言っていた、「僕は[#「僕は」に傍点]瓦《かわら》がくずれ落ちる屋根の下に住んでいるんだ[#「くずれ落ちる屋根の下に住んでいるんだ」に傍点]。」驚くことはまれで、なぜなら事変が起こるのがあらかじめわかっているのだから、いけない時でも平気に構えており、運命の意地悪さにも笑っていて、まるで冗談をきいてる人のようだった。貧乏ではあったが、彼の上きげんのポケットはいつも無尽蔵だった。すぐに一文なしになってしまうが、笑い声はいつまでも尽きなかった。窮境がやってきても彼はその古|馴染《なじみ》に親しく会釈した。災厄をも親しく遇した。不運ともよく馴染み、その綽名《あだな》を呼びかけるほどになっていた。「鬼門《きもん》さん、今日は、」と彼はいつも言った。
その運命の迫害が、彼を発明家にしてしまった。彼は種々の妙策を持っていた。少しも金は持たなかったが、気が向くと「思うままの荒使い」をする術《すべ》を知っていた。ある晩、彼はある蓮葉女《はすはおんな》と夜食をして、ついに「百フラン」を使い果たしてしまった。そしてそのばか騒ぎのうちに、次のようなすてきな言葉を思いついた。「サン[#「サン」に傍点]・ルイの娘よ[#「ルイの娘よ」に傍点]、僕の靴をぬげ[#「僕の靴をぬげ」に傍点]。」([#ここから割り注]訳者注 サン・ルイは百フラン、そしてまたルイ王にかけた言葉[#ここで割り注終わり])
ボシュエは弁護士職の方へ進むのに少しも急がなかった。彼はバオレルのようなやり方で法律を学んだ。ボシュエはほとんど住所を持っていなかった。ある時はまったくなかった。方々を泊まり歩いた、そしてジョリーの家へ泊まることが一番多かった。ジョリーは医学生だった。彼はボシュエよりも二つ若かった。
ジョリーは、若い神経病みだった。医学から得たところのものは、医者となることよりむしろ病人となることだった。二十三歳で彼は自分を多病者と思い込み、鏡に舌を写して見ることに日を送っていた。人間は針のように磁気に感ずるものだと断言して、夜分血液の循環が地球の磁気の大流に逆らわないようにと、頭を南に足を北にして牀《とこ》を伸べた。嵐のある時は自分で脈を取って見た。その上連中のうちで一番快活だった。若さ、病的、気弱さ、快活さ、すべてそれら個々のものは、うまくいっしょに同居して、それから愉快な変人ができ上がって、それを仲間らは、音をたくさん浪費して、ジョリリリリーと呼んでいた。「君は四り(四里)も飛び回れるんだ」とジャン・プルーヴェールは彼に言っていた。
ジョリーはステッキの先を鼻の頭につける癖があった。それは鋭敏な精神を持ってるしるしである。
かようにそれぞれ異なってはいるが、全体としてはまじめに取り扱うべきであるこれらの青年は、同じ一つの信仰を持っていた。それは「進歩」ということである。
すべての人々は、フランス大革命から生まれた嫡子であった。最も軽佻《けいちょう》な者でも、一七八九年という年を言うときはおごそかになった。彼らの肉身の父は、中心党で王党で正理党で、あるかまたはあった。しかしそれはどうでもいいことである。若い彼らの雑多な前時代は彼らには少しも関係を及ぼさなかった。主義という純潔な血が、彼らの血管には流れていた。彼らは何ら中間の陰影もなく直接に、清純なる権利と絶対なる義務とに愛着していた。
その主義にいったん加盟入会した彼らは、ひそかに理想を描いていた。
すべてそれら燃えたる魂のうちに、確信せる精神のうちに、ひとりの懐疑家があった。彼はどうしてそこにはいってきたのであるか。あらゆる色の取り合わせによってであった。その懐疑家をグランテールと呼び、いつもその判じ名のRを署名した([#ここから割り注]訳者注 グランテールという音は大字Rという意を現わす[#ここで割り注終わり])。グランテールは何事をも信じようとはしなかった男である。それに彼は、パリー学問の間に最も多く種々なことを知った学生のひとりだった。最もよい珈琲《コーヒー》はランブラン珈琲店にあり、最もよい撞球台《たまつきだい》はヴォルテール珈琲店にあることを知っていた。メーヌ大通りのエルミタージュにはよい菓子とよい娘とがあること、サゲーお上さんの家にはみごとな鶏料理ができること、キュネットの市門にはすばらしい魚料理があること、コンバの市門にはちょっとした白葡萄酒《しろぶどうしゅ》があること、などを知っていた。あらゆるものについて、彼は上等の場所を知っていた。その上、足蹴術を心得ており、舞踏をも少し知っており、また桿棒術に長じていた。そのほかまた非常な酒飲みだった。彼は極端に醜い男だった。当時の最もきれいな靴縫《くつぬ》い女であったイルマ・ボアシーは、彼の醜さに
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