齊の民主派である。
T夫人の客間においては、皆|秀《ひい》でた階級の人々であったから、花やかな礼容の下に、趣味は洗煉《せんれん》されまた尊大になっていた。習慣は無意識的なあらゆる精緻《せいち》さを含んでいた。そしてこの精緻さこそ、既に埋められながらなお生きている旧制そのものだったのである。その習慣のうちのあるものは、特に言葉の上のそれは、いかにも奇妙に思われるものだった。ただ表面だけを見る観察者らは、単に老廃にすぎないものを田舎式《いなかしき》だと見誤ったかも知れない。女に対して将軍夫人[#「将軍夫人」に傍点]などという言葉がまだ言われていた。連隊長夫人[#「連隊長夫人」に傍点]という言葉もまったく廃《すた》れてはいなかった。美しいレオン夫人は、おそらくロングヴィル公爵夫人や、シュヴルーズ公爵夫人などの思い出によってであろうが、侯爵夫人という肩書きよりもそういう名称の方を好んでいた。クレキー侯爵夫人も自ら連隊長夫人[#「連隊長夫人」に傍点]と言っていた。
チュイルリー宮殿において、王に向かって親しく言葉を向ける時には、いつも国王[#「国王」に傍点]という三人称を用いて、決して陛下[#「陛下」に傍点]と言わない巧妙さを作り出したのは、やはりこの上流の小社会であった。なぜなら陛下[#「陛下」に傍点]という称号は、「簒奪者《さんだつしゃ》([#ここから割り注]訳者注 ナポレオン[#ここで割り注終わり])によって汚された」からである。
そこでまた人々は、事件や人物を批判した。人々は時代をあざけり、ために時代ということを了解しないで済んだ。人々は互いに驚きの情を深め合った。また互いにその知識を分かち合った。メッセラはエピメニデスに物を教えた([#ここから割り注]訳者注 共に太古の人物で、前者は長命を以って後者は長眠を以って有名である[#ここで割り注終わり])。聾者《ろうじゃ》は盲者の手を引いた。彼らはコブレンツ([#ここから割り注]訳者注 一七九二年王党の亡命者が集合せし地[#ここで割り注終わり])以来経過した時間をないものだとした。ルイ十八世が神のお陰によって治世二十五年目であったのと同じく、移住者らもまさしくその青年期の第二十五年目だったのである。
すべては調和がとれていた。何物もあまりに生き生きとしてるものはなかった。人の言葉はようやく一つの息吹《いぶき》にすぎなかった。新聞は客間と一致して一つの草双紙にすぎないらしかった。若い人々もいたが、それもみな多少死にかかっていた。控え室においても、接待員はみな老耄《おいぼれ》だった。まったく過去のものとなっているそれらの人物には、やはり同じ種類の召し使いが仕えていた。それらのようすを見ると、もう長い前に生命を終えながら、なお頑固《がんこ》に墳墓と争っているかのようだった。保存する、保存、保存人、そういうのが彼らの辞書のほとんど全部の文字だった。「においがいい[#「においがいい」に傍点]」(評判がいい)ということが問題だった。実際それらの尊ぶべき群れの意見のうちには香料があった、そしてその思想にはインド草の香《かお》りがしていた。それは木乃伊《ミイラ》の世界だった。主人はいい香りをたき込まれており、従僕は剥製《はくせい》にされていた。
亡命し零落したひとりのりっぱな老侯爵夫人は、もうひとりの侍女しか持っていなかったが、なお言い続けていた、「私の女中ども[#「私の女中ども」に傍点]」と。
T夫人の客間のうちで人々は何をしていたか? 彼らはみな過激王党派だったのである。
過激派《ユルトラ》である、というこの言葉は、それが表現する事物はおそらくまだ消滅しつくしてはいないであろうが、言葉自身は今日ではもはや無意味のものとなっている。その理由は次の通りである。
過激派であるということは、範囲の外まで逸することである。王位の名によって王笏《おうしゃく》を攻撃し、祭壇の名によって司教の冠を攻撃することである。おのれが導くものを虐遇することである。後ろに乗せて引き連れてるものを後足《あとあし》でけることである。邪教徒の苦痛の程度が少ないと言って火刑場を悪口することである。崇拝されることが少いと言って偶像を非難することである。過度の尊敬によって侮辱することである。法王に法王主義の不足を見いだし、国王に王権の不足を見いだし、夜に光の過多を見いだすことである。白色の名によって石膏《せっこう》や雪や白鳥や百合《ゆり》の花などに不満をいだくことである。敵となるまでに深く味方たることである。反対するまでに深く賛成することである。
過激的な精神は、ことに王政復古の第一面の特質である。
およそ歴史中、一八一四年ごろから初まり右党の手腕家ヴィレル氏が頭をもたげた一八二〇年ごろに終わったこの小期間に、相似寄った時期は一つもない。その六年は実に異様な一時期であって、騒然たると同時に寂然として、嬉々《きき》たると同時に沈鬱《ちんうつ》で、あたかも曙《あけぼの》の光に照らされてるがようであると同時に、なお地平線に立ちこめてしだいに過去のうちに沈み込まんとする大災厄《だいさいやく》の暗雲におおい隠されてるがようであった。その光と影との中に、新しくまた古く、おかしくまた悲しく、年少でまた老年である一小社会があって、目をこすっていた。復起と覚醒《かくせい》とほど互いによく似寄ってるものはない。ふきげんにフランスをながめ、またフランスから皮肉にながめられてる一群。街路に満ちてる人のいい老梟《ろうふくろう》たる公爵ら、帰国せる者らとよみがえった者ら、すべてに驚きあきれてる旧貴族ら、祖国を再び見て歓喜し、もとの王政を再び見得ないで絶望して、フランスにあることをほほえみまた泣いている善良な貴族ら、帝国の貴族すなわち軍国の貴族に恥辱を与える十字軍の貴族。歴史の意義を失った歴史的人種。ナポレオンの仲間を軽蔑するシャールマーニュ大帝の仲間。上に述べきたったとおり、剣戟《けんげき》は互いに凌辱《りょうじょく》し合った。フォントノアの剣は笑うべきものであり、一つの錆《さび》くれにすぎなかったと言う。マレンゴーの剣は擯斥《ひんせき》すべきもので、一つのサーベルにすぎなかったと言い返す。昔は昨日をけなした。人々はもはや、偉大なるものに対する感情も持たず、嘲笑《ちょうしょう》すべきものに対する感情も持たなかった。ナポレオンを称してスカパンと言う者もいた([#ここから割り注]訳者注 スカパンとはモリエールの喜劇中の人物にて、奸知にたけた悪従僕の典型[#ここで割り注終わり])。しかしそういう社会は今はもうなくなっている。くり返して言うが、今日ではもう影も止めていない。で、今日、偶然その相貌《そうぼう》を多少つかんできて、頭の中に浮かべようとする時には、あたかもノアの洪水《こうずい》以前の世界ほどに不思議なものに思われる。そしてまた実際その社会も一の洪水によってのみ込まれてしまったのである。二つの革命によって姿を消してしまったのである。思想とはいかに大なる波濤《はとう》であるか! 破壊し埋没すべく命ぜられたすべてをいかに早くおおい隠し、恐るべき深淵をいかにたちまちの間にこしらえることか。
そういうのが、このはるかな廉潔な時代の客間のありさまであった。そしてそこでは、マルタンヴィル氏はヴォルテールよりもいっそうの機才を持っていたのである。
それらの客間は、自分だけの文学と政治とを持っていた。フィエヴェーが信用を得ていた。アジエ氏が法令をたれていた。マラケー川岸の古本出版商コルネ氏が種々批評を受けていた。ナポレオンはそこでは、まったくコルシカの食人鬼にすぎなかった。その後、国王の軍隊の陸軍中将ブオナパルテ侯爵([#ここから割り注]訳者注 ナポレオンのこと[#ここで割り注終わり])という語が歴史の中に入れられたのは、時代精神への譲歩であった。
それらの客間は、長く純潔であることはできなかった。既に一八一八年ごろより、数人の正理派は芽を出し初めて、不安な影となった。それらの人々のやり方は、王党であるとともにそれを弁明することだった。過激派らがきわめて傲然《ごうぜん》としていたところに、正理派らは多少の恥を感じていた。彼らは機才を持っていたし、沈黙を持っていた。その政治的信条には、適当に倨傲《きょごう》さが交じえられていた。その成功は当然だった。彼らは白い襟飾《えりかざ》りとボタンをすっかりかけた上衣とを濫用したが、それももとより有効だった。正理派の過誤もしくは不幸は、老いたる青春をこしらえたことだった。彼らは賢者のような態度をとった。絶対過激なる主義に一つの穏和なる権力を接木《つぎき》しようとした。破壊的自由主義に保守的自由主義を対立させ、しかも時としては珍しい怜悧《れいり》さをもってそれをした。人々は彼らがこう言うのを聞いた。「勤王主義に感謝せよ。勤王主義は少なからざる役目をした。それは伝統と教養と宗教と尊敬とを再びもたらした。忠実で正直で誠実で仁愛で献身的であった。たとい自ら好んでではなかったとはいえ、国民の新しい偉大さに王国古来の偉大さを交じえた。そしてその誤ちは、革命と帝国と光栄と自由と、若き思想と若き時代と若き世紀とを、理解していないことである。しかしそれが吾人に対して有する誤ちは、吾人もまた時としてそれに対して有しなかったであろうか。吾人がその後を継いだ革命は、すべてに聡明《そうめい》なるべきはずである。勤王主義を攻撃することは、自由主義の矛盾である。何たる過失であり、何たる盲目であるか。革命のフランスは、歴史のフランスに、言い換えればその母に、また言い換えればそれ自身に、敬意を欠いている。一八一六年九月五日以後王国の高貴さが受けている待遇は、あたかも一八一四年七月八日以後帝国の高貴さが受けた待遇と同じである。彼らは鷲《わし》に対して不正であったが、吾人は百合《ゆり》の花に対して不正である。かくて人は常に酷遇すべき何かを欲するのであるか。ルイ十四世の王冠の金を去り、アンリ四世の紋章を取り除くことは、有用なことであるか。イエナ橋からNの字([#ここから割り注]訳者注 ナポレオンの頭字[#ここで割り注終わり])を消したヴォーブラン氏を吾人は嘲笑《ちょうしょう》する。しかしいったい彼は何をなさんとしたのであるか。吾人がなしてることと同じことをではないか。マレンゴーと同じくブーヴィーヌも吾人のものである。Nの字と同じく百合の花も吾人のものである。それは吾人のつぐべき遺産である。それを削除することが何のためになるか。現在の祖国と同じく過去の祖国をも否認してはいけない。何ゆえに歴史のすべてを欲してはいけないのか。何ゆえにフランスのすべてを愛してはいけないのか。」
そういうふうに正理派らは、批評されるのを喜ばずまた弁護されるのを憤っていた勤王主義を、批評しまた弁護したのである。
過激派は勤王論の第一期を画し、融合はその第二期の特質となった。熱狂に次ぐに巧妙をもってしたのである。そしてわれわれはこれをもってそのスケッチの終わりとしよう。
この物語の途中において、本書の著者は、近世史のこの不思議な一時期に出会った。そして通りすがりに一瞥《いちべつ》を与えて、今日もはや知られないその社会の奇怪な状態を少しく述べざるを得なかったのである。しかし著者は急速に、また何ら苦々《にがにが》しい嘲笑的《ちょうしょうてき》な考えもなしに、それをなすのである。思い出は、母たる祖国に関するものであるから親愛と尊敬とを起こさせ、著者をこの過去の一時期に愛着せしむる。かつまたその一小社会も、偉大さを持っていたことを言っておきたい。人はそれをほほえむことはできよう、しかしそれを軽蔑しまたは憎むことはできない。それは昔のフランスだったのである。
さて、マリユス・ポンメルシーは普通の子供と同じくいくらか勉強をした。伯母のジルノルマン嬢の手から離れた時祖父は彼を、最も純粋な古典に通ずるりっぱな教師に託した。開けかかっていた彼の若い心は、似而非貞女《えせていじ
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