たのであるか。父はマリユスに「テナルディエを救え」と言っていた、しかるにマリユスはテナルディエを打ちひしいでその敬愛せる聖《きよ》き声に答えんとするのか。その男は身の危険を冒して父を死より救い、父はその男を子たるマリユスに頼んでおいたのに、マリユスは今自らその男をサン・ジャックの広場に処刑さして、それを父の墓前にささげんとするのか。父が自らしたためた最後の意志をかくも長い間胸にいだいていながら、まさしくその正反対をなさんとは、何という運命の愚弄《ぐろう》であろう! しかしまた一方に、その待ち伏せを見ながらそれを妨げんともせず、被害者を見捨て殺害者を許さんとするのか! かかる悪漢に対して何らか感謝の念をいだき得るものであろうか。四カ年以来マリユスが持っていたあらゆる考えは、その意外の打撃によってずたずたに引き裂かれてしまった。彼は身を震わした。すべては彼の一存にかかっていた。彼の眼前に争っているそれらの人々は、おのずから彼の手中にあった。もし彼がピストルを打ったならば、ルブラン氏は救われテナルディエは捕えられるだろう。もしピストルを打たなければ、ルブラン氏は犠牲に供され、テナルディエはあるいは身を脱するだろう。一方を倒しても、また他方を見殺しにしても、いずれも悔恨の念は免れぬ。何となすべきか? いずれを選ぶべきか? 最も強き記憶、内心の深き誓い、最も神聖なる義務、最も尊き文言、それにそむくべきか。父の遺言にそむくべきか。あるいはまた罪悪の行なわるるのを見過ごすべきか。一方には父のために懇願する「わがユルスュール」の声が聞こえるように思われ、他方にはテナルディエのことを頼む大佐の声が聞こえるように思われた。そして彼は気も狂わんばかりの心地がした。膝《ひざ》も身体をささえきれなくなった。しかも眼前の光景は切迫していて、熟慮のひまさえもなかった。自分が左右し得ると思っていた旋風にかえって運び去らるるがようなものだった。彼はほとんど気を失いかけた。
 その間にテナルディエは――われわれは以後彼をこの名前で呼ぶことにしよう――われを忘れたようにまた勝利に酔うたがように、テーブルの前をあちらこちら歩いていた。
 彼は手のうちに蝋燭《ろうそく》をつかみ、蝋は壁にはねかかり火は消えかかったほどの激しさでそれを暖炉の上に置いた。
 それから彼は恐ろしい様子でルブラン氏の方をふり向き、こういう言葉を吐きかけた。
「焼けた、焦げた、煮えた、蒲焼《かばやき》だ!」
 そして彼は恐ろしい勢いでまた歩き出した。
「ああ、」と彼は叫んだ、「とうとう見つけたよ、慈善家さん、ぼろ着物の分限者さん、人形をくれた奴《やっこ》さん、老耄《おいぼれ》のジョクリスさん!([#ここから割り注]訳者注 ジョクリスとはお人よしの典型的人物[#ここで割り注終わり])ああお前さんにはわしがわからないのかね。ちょうど八年前、一八二三年のクリスマスの晩に、モンフェルメイュのわしの宿屋へきたなあ、お前さんではなかったろうよ。ファンティーヌの娘のアルーエットというのをわしの家から連れ出したなあ、お前さんではなかったろうよ。黄色い外套《がいとう》を着ていたのはな、そして今朝《けさ》わしの所へきた時のようにぼろ着物の包みを手に下げていたのはな。おい女房、よその家へ毛糸の靴下《くつした》をつめ込んだ包みを持って行くのは、この男の癖と見えるな、この慈善顔をした老耄めのな。分限者さん、お前さんは小間物屋かね。貧乏人に店のがらくたをくれやがって、へん、笑わせやがるよ。お前さんに俺《おれ》がわからねえって? だがな、俺の方ではわかってるんだ。お前がここに鼻をつっ込みやがった時からすぐに見て取ったんだ。宿屋だからと言ってやたらに人の家へ入り込みやがって、みじめな着物をつけてさ、一文の銭をこうような貧乏な様子をしてさ、人をだまかし、大きなふうをして、米櫃《こめびつ》をまき上げやがって、森の中で人を脅かしやがって、そのくせ人が落ちぶれてると、大きすぎる外套《がいとう》だの病院にあるようなぼろ毛布を二枚持ってきて、すました顔をしてやがる。それでうまくゆくと思うと大まちがえだ、老耄《おいぼれ》の乞食《こじき》めが、誘拐者《かどわかし》めが!」
 彼はふと言いやめて、ちょっと心の中で独語してるように見えた。ちょうど彼の憤怒は、ローヌ川のように穴の中へでも落ちたかのように見えた。そしてひそかに独語したことに大声で結末をつけるかのように、テーブルを拳《こぶし》でたたいて叫んだ。
「しかもお人よしのようなふうをしやがってさ。」
 そしてルブラン氏の方へ言いかけた。
「おい、お前は以前によくも俺《おれ》をばかにしやがったな。俺の不運のもとはみんなお前だぞ。わずか千五百フランで大事な娘を取ってゆきやがったからだ。娘はな、たし
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