道の反対の端まで行き、それからまた戻ってきて、こんどは前よりもずっとベンチに近づいて来た。そして木立ち三本をへだてるだけの所までやってきたが、そこでもうどうしても先へ進めないような気がして、ちょっと躊躇《ちゅうちょ》した。娘の顔が自分の方へ差し向けられてるのを見るように思った。それでも彼は男らしい激しい努力をして、ためらう心を押さえつけ、前の方へ進んでいった。やがて彼はまっすぐに身を固くして、耳の先までまっかになり、右にも左にもあえて目もくれず、政治家のように手を上衣の中にさし込んで、ベンチの前を通りすぎた。そしてそこを、その要塞《ようさい》の大砲の下を、通ってゆく時、恐ろしく胸が動悸《どうき》するのを感じた。彼女は前日のとおり、緞子《どんす》の長衣と縮紗《クレープ》の帽子とをつけていた。「彼女の声」に違いない言い難い声を彼は聞いた。彼女は静かに話をしていた。きわめてきれいだった。それだけのことを、彼は彼女を見ようともしなかったけれども心に感じた。彼は考えた。「フランソア・ド・ヌーシャトー氏が自筆だとしてジル・ブラスの刊行本の初めにつけたマルコ・オブルゴン・ド・ラ・ロンダに関する論説は、実は私が書いたのだと知ったら、彼女もきっと私に敬意と尊敬とを持つに違いないんだが。」
彼はベンチの所を通りすぎ、すぐ先の道の端まで行き、それからまた戻ってきて、も一度美しい娘の前を通った。がこんどはまっさおになっていた。強い不安しか感じなかった。彼はベンチと娘とから遠ざかっていった。そして彼女の方に背を向けながら、後ろから彼女に見られてるような気がして、思わずよろめいた。
それから彼はもうベンチに近寄らなかった。道の中ほどに立ち止まって、今までかつてしなかったことであるが、横目をしながらそこのベンチに腰をおろしてしまい、漠然《ばくぜん》たる心の底で考えた。要するに、自分が嘆賞してるその白い帽子と黒い上衣とのあの人たちも、自分のみがき立てたズボンと新しい上衣とに対して、全然無感覚であることはできないだろうと。
十五分ばかりそうしていた後、円光にとりまかれてるベンチの方へまた歩き出そうとするかのように、彼は立ち上がった。けれどもそこに立ったままで身動きもしなかった。あすこに娘とともに毎日腰掛けている老紳士の方でも、きっと自分に気がつき、自分の態度をおそらく不思議に思ったであろうと、十五カ月以来初めて彼は考えた。
そしてまた初めて彼は、心のうちでとは言え、ルブラン(白)氏などという綽名《あだな》でその知らない紳士を呼んでいたことに、ある不敬さを感じた。
そして彼は頭をたれ、手にしてるステッキの先で砂の上に物の形を描きながら、数分間じっとしていた。
それから突然向きを変え、ベンチとルブラン氏とその娘とを後ろにして、自分の家へ帰っていった。
その日彼は夕食を食いにゆくことを忘れた。晩の八時ごろそれに気づいたが、もうサン・ジャック街までやって行くにはあまり遅かったので、なあにと言って、一片のパンだけをかじった。
彼は上衣にブラシをかけ、丁寧にそれを畳んでから、ようやく寝床にはいった。
五 ブーゴン婆さんのたびたびの驚き
ブーゴン婆さん――と言うのは、ゴルボー屋敷の借家主で門番で兼世帯女である婆さんで、実際は前に言ったとおりブュルゴンという名だったが、何物をも尊敬したことのないひどいクールフェーラックの奴《やつ》が、そう名づけてしまったのである([#ここから割り注]訳者注 ブーゴン婆とはぐずり婆の意[#ここで割り注終わり])。――ブーゴン婆さんは、その翌日、マリユスがまた新しい上衣を着て出かけるのを見て、あきれてしまった。
マリユスはまたリュクサンブールの園に行ったが、道の中ほどにあるベンチより先へは行かなかった。前のように彼はそこに腰掛け、遠くからながめて、白い帽子と黒い長衣とまたことに青い輝きをはっきり見た。彼はそこを動きもせず、リュクサンブールの門がしまる時にようやく帰っていった。ルブラン氏とその娘とが帰ってゆく姿は見えなかった。それで彼は、ふたりはウエスト街の門から出て行ったのだろうと推定した。その後、数週間後のことであったが、その時のことを考えてみた時、彼はその晩どこで夕食をしたかどうしても思い出せなかった。
その翌日、もう三日目であったが、ブーゴン婆さんはまた驚かされた。マリユスは新しい上衣を着て出かけたのである。
「まあ三日続けて!」と彼女は叫んだ。
彼女はあとをつけてみようとした。しかしマリユスは早く大またに歩いていた。あたかも河馬が羚羊《かもしか》を追っかけるようなものだった。二、三分とたたないうちに、彼女はマリユスの姿を見失い、息を切らして戻ってきた。喘息《ぜんそく》のためにほとんど息をつまらして、ひ
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