ないからだった。国家のために少しは尽さなければならないと思って、会堂理事の職を選んだのだった。その上、女のことといったらチューリップの球根ほどにも思っていず、男のことといったらオランダのエルゼヴィール版の書物ほどにも思っていなかった。もう六十の坂をとくに越していたが、ある日だれかが彼に尋ねた、「あなたは結婚したことがおありですか。」「忘れてしまいました、」と彼は答えた。時とすると、だれにもそれは起きることであるが、こう口にすることもあった、「ああ私に金があったら!」しかしそれは、ジルノルマン老人のようにきれいな娘を横目で見ながら言うのではなく、古書をながめながら言うのだった。彼はひとりで、年寄りの女中といっしょに住んでいた。少し手部痛風にかかっていた。そしてリューマチから来る関節不随の指を休ませようとする時には、布を折ってそれでゆわえた。彼はコートレー付近の特産植物誌[#「コートレー付近の特産植物誌」に傍点]という彩色版入りの書物をこしらえて出版したが、かなりの評判で、その銅版を持っていて自ら売った。そのためメジュール街の彼の門をたたく者が日に二、三度はあった。彼はそのため年に二千フランばかりを得ていた。それがほとんど彼の財産全部だった。そして貧しくはあったが、忍耐と倹約と長い間のおかげで、あらゆる種類の高価な珍本を集めることができた。外出する時はいつも書物を一冊小わきに抱えていたが、帰って来る時にはしばしば二冊となっていた。小さな庭と一階の四つの室《へや》とが彼の住居だったが、その唯一の装飾としては枠《わく》に入れた植物標本と古い名家の版画だけだった。サーベルや銃を見ると身体が凍える思いをした。生涯の間一度も大砲に近寄ったこともなく廃兵院《アンヴァリード》に行ったこともなかった。かなりの胃袋を持っており、司教をしてるひとりの兄があり、頭髪はまっ白で、口にも心にも歯がなくなり、身体中震え、言葉はピカルディーなまりで、子供のような笑い方をし、すぐに物におそれ、年取った羊のような様子をしていた。その上、ポルト・サン・ジャックの本屋の主人でロアイヨルという老人のほか、生きた者のうちには友人も知己もなかった。その夢想は、藍《あい》をフランスの土地に育ててみたいということだった。
 女中の方もまた、質朴な性質だった。そのあわれな人のいい婆さんは、かつて結婚したことがなかった。ローマのシクスティーヌ礼拝堂でアレグリ作の聖歌でも歌いそうなスュルタンという牡猫《おねこ》が、彼女の心を占領して、彼女のうちに残ってる愛情にとっては十分だった。彼女の夢想は少しも人間までは及ばなかった。決して彼女は自分の猫より先まで出ようとはしなかった。猫と同じように口髭《くちひげ》がはえていた。その自慢はいつもまっ白な帽子だった。日曜日に弥撒《ミサ》から帰って来ると、行李《こうり》の中の下着を数えたり、買ったばかりで決して仕立てない反物を寝床の上にひろげてみたりして、時間を過ごした。読むことはできた。マブーフ氏は彼女にプリュタルク婆さん[#「プリュタルク婆さん」に傍点]という綽名《あだな》をつけていた。
 マブーフ氏はマリユスが好きであった。なぜなら、マリユスは若くて穏和だったので、彼の内気を脅かすことなく彼の老年をあたためてくれたからである。穏和な青年は、老人にとっては風のない太陽のようなものである。マリユスは武勲や火薬や入り乱れた進軍など、父が幾多の剣撃を与えまた受けたあの驚くべき戦闘で、まったく心を満たされてしまったとき、マブーフ氏を訪ねて行った。するとマブーフ氏は、花栽培の方面からその英雄のことを語ってきかした。
 一八三〇年ごろ、兄の司祭は死んだ。そしてほとんどすぐに、マブーフ氏の眼界は夜がきたように暗くなった。破産――公証人の――は、兄と自分との名義で所有していた全部である一万フランを、彼から奪ってしまった。七月革命は書籍業に危機をきたした。騒乱の時代にまっ先に売れなくなるものは特産植物誌などというものである。コートレー付近の特産植物誌[#「コートレー付近の特産植物誌」に傍点]はぱったりその売れ行きが止まった。幾週間たってもひとりの買い手もなかった。時とするとマブーフ氏は呼鈴《ベル》のなるのに喜んで飛び立った。「旦那様、水屋でございますよ、」とプリュタルク婆さんは悲しげに言った。ついにマブーフ氏はメジエール街を去り、会堂理事の職をやめ、サン・スュルピス会堂を見捨て、書物は売らなかったが版画の一部を売り――それは大して大事にしているものではなかった――そしてモンパルナス大通りに行って小さな家に居を定めた。しかしそこには三カ月しか住まなかった。それには二つの理由があった。第一は、一階と庭とで三百フランもかかるのに、二百フランしか借料にあてたくなかったからで
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