豪《えら》い奴だぞ、名を消されようとしている。待てよ。ずぼらなおもしろい奴に違いない。善良な学生ではないな。床の間の置き物みたいな奴ではないな。勉強家ではないな。科学や文学や神学や哲学を自慢する嘴《くちばし》の黄色い衒学者《げんがくしゃ》ではないな。くだらぬことにおめかししてる愚物ではないな。敬すべきなまけ者に違いない。そこらをうろついてるか、転地としゃれ込んでるか、浮わ気女工とふざけてるか、美人をつけ回してるか、あるいは今時分|俺《おれ》の女のもとへでも入り浸ってるかも知れないぞ。よし助けてやれ。一つブロンドーの奴をやっつけてやれ! その時ブロンドーは抹殺《まっさつ》の黒ペンをインキに浸して、茶色の目玉で聴講者を見回して、三度目に繰り返した、マリユス[#「マリユス」に傍点]・ポンメルシー[#「ポンメルシー」に傍点]! 僕は答えた、はい[#「はい」に傍点]! それで君は消しを食わなかったんだ。」
「君!……」とマリユスは言った。
「そしてそれで、僕の方が消しを食っちゃった。」とレーグル・ド・モーは言い添えた。
「君の言うことはわからない。」とマリユスは言った。
 レーグルは言った。
「わかってるじゃないか。僕は返事をするために講壇の近くにいて、逃げ出すために扉《とびら》の近くにいたんだ。教師は僕を何だかじっと見つめていた。するとブロンドーの奴《やつ》、ボアローが説いた意地悪の鼻に違いない、突然レ[#「レ」に傍点]の字へ飛び込んできやがった。それは僕の文字なんだ。僕はモーの者で、レグルと言うんだ。」
「レーグル!」とマリユスは言葉をはさんだ、「いい名だね。」([#ここから割り注]訳者注 レーグルすなわち鷲はナポレオンの紋章で、彼はナポレオン崇拝家である[#ここで割り注終わり])
「ブロンドーはそのいい名前の所へやってきたんだ。そして叫んだ、レーグル[#「レーグル」に傍点]! 僕は答えた。はい[#「はい」に傍点]! するとブロンドーの奴、虎《とら》のようなやさしさで僕をながめ、薄ら笑いをして言いやがった。君はポンメルシーなら、レーグルではあるまい。この一言は君にとってあまり有り難くないようだが、実はそのいまいましい味をなめたのは僕だけさ。彼奴《あいつ》はそう言って、僕の名を消してしまった。」
 マリユスは叫んだ。
「それは実に……。」
「まず何よりも、」とレーグルはさえぎった、「何とかうまい賛辞のうちにブロンドーをお陀仏《だぶつ》にしてやりたいんだ。奴を死んだ者と仮定する。元来やせてはいるし、顔色は青白いし、冷たいし、硬《こわ》ばってるし、変な臭《にお》いがするし、死んだところで大した変わりはないだろう。そこで僕はこう言ってやろう。――爾《なんじ》地を裁く者よ思い知れ[#「地を裁く者よ思い知れ」に傍点]。この所にブロンドー横たわる、鼻のブロンドー、ブロンドー・ナジカ(鼻ブロンドー)、規則の牡牛《おうし》、ボス・ディシプリネ(規則牛)、命令の番犬、点呼の天使、彼は実にまっすぐであり、四角であり、正確であり、厳正であり、正直であり、嫌悪《けんお》すべきものなりき。わが名を彼が消したるがごとく、彼の名を神は消したまえり。」
 マリユスは言った。
「僕はまったく……。」
「青年よ、」とレーグル・ド・モーは続けて言った、「これは汝の教えとならんことを。以来は必ずきちょうめんなれ。」
「何とも申し訳がない。」
「汝の隣人をして再び名を消さるるに至らしむることなかれ。」
「僕は何とも……。」
 レーグルは笑い出した。
「そして僕は愉快だ。も少しで弁護士になるところだったが、その抹殺で救われたわけだ。弁護士などという月桂冠《げっけいかん》はおやめだ。これで後家の弁護もしなくていいし、孤児を苦しめることもしなくてすむ。弁護士服もおさらばだ、見習い出勤もおさらばだ。いよいよ除名が得られたわけだ。そして皆君のおかげだ。ポンメルシー君。改めて感謝の訪問をするつもりでいる。君はどこに住んでるんだ。」
「この馬車の中だよ。」とマリユスは言った。
「ぜいたくなわけだね。」とレーグルは平気で答えた。「君のために祝そう。そこにいたら年に九千フランは家賃を払わなきゃなるまいね。」
 その時クールフェーラックが珈琲《コーヒー》店から出てきた。
 マリユスは寂しげにほほえんだ。
「僕は二時間前からこの借家にいるんだが、もう出ようと思ってる。だがよくあるような話で、どこへ行っていいかわからないんだ。」
「君、」とクールフェーラックは言った、「僕の家にきたまえ。」
「僕の方に先取権はあるんだが、」とレーグルは言葉をはさんだ、「悲しいかな自分の家というのがないからな。」
「黙っておれよ、ボシュエ。」とクールフェーラックは言った。
「ボシュエだと、」とマリユスは言った、「君はレ
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