がなわれたる進歩は、この優しくまじめなる精神を半ばしか満足せしめなかった。一七九三年のように、民衆がまっさかさまに真理の中に飛び込むことは、彼を恐れさした。しかし彼にとっては、停滞はなおいっそう嫌悪《けんお》すべきものであった。彼はそこに腐敗と死滅とを感じた。全体として言えば、彼は瘴癘《しょうれい》の気よりも泡沫《ほうまつ》を愛し、下水よりも急流を愛し、モンフォーコンの湖水よりもナイヤガラ瀑布《ばくふ》を愛した。要するに彼は、止まることをも急ぐことをも欲しなかったのである。騒々しい友人らが、絶対なるものに勇ましく心ひかれて、輝かしい革命的冒険を賛美し、それを呼び起こさんとしている中にあって、コンブフェールはただ、進歩をして自然に進ませようと欲した。それは善良な進歩であって、おそらく冷ややかではあろうがしかし純粋であり、方式的ではあろうがしかし難点なきものであり、平静ではあろうがしかし揺るがし得ないものであったろう。コンブフェールは自らひざまずいて手を合わせ、未来が純潔さをもって到来せんことを祈り、何物も民衆の広大有徳なる進化を乱すものなからんことを祈ったであろう。「善は[#「善は」に傍点]無垢《むく》ならざるべからず[#「ならざるべからず」に傍点]、」と彼は絶えず繰り返していた。そしてたとい革命の偉大さは、眩惑《げんわく》せしむるばかりの理想を見つむることであり、血潮と猛火とを踏みにじりつつ雷電の中を横ぎって、理想に向かって飛びゆくことであるとしても、進歩の美は、無垢なることに存するに違いない。そして一方を代表するワシントンと、他方の化身たるダントンとの間には、白鳥の翼を持った天使と鷲《わし》の翼を持った天使とをへだてる差違がある。
 ジャン・プルーヴェールは、コンブフェールよりもなおいっそう穏やかなはだ合いの人物だった。彼は自らジュアン([#ここから割り注]訳者注 ジャンを中世式にしたもの[#ここで割り注終わり])と呼んでいた。それは中世紀の非常に有用な研究が生まれ出た強く深い機運に立ち交じっているという、あのつまらぬ一時の空想からであった。ジャン・プルーヴェールは情緒《じょうちょ》深く、鉢植《はちう》えの花を育て、笛を吹き、詩を作り、民衆を愛し、婦人をあわれみ、子供のために泣き、未来と神とを同じ親しみのうちに混同し、気高き一つの首を、すなわちアンドレ・シェニエの首をはねたことを、革命に向かって難じていた。平素は繊細であるが突如として雄々しくなる声を持っていた。博学と言えるほど学問があり、ほとんど東方語学者であった。またことに善良であった。善良さがいかに偉大に近いものであるかを知っている人にはごくわかりきったことであるが、詩の方面において彼は広大なるものを愛していた。彼はイタリー語、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語を知っていた。しかもそれはダンテとユヴェナリスとアイスキロスとイザヤの四詩人を読むことに使われたのみだった。フランス人ではラシーヌよりもコルネイユを、コルネイユよりもアグリッパ・ドービネを好んでいた。燕麦《からすむぎ》や矢車草のはえている野を喜んで散歩し、世の中の事件とほとんど同じくらいに雲のことを気にしていた。彼の精神は人間の方面と神の方面と、二つの態度を有していた。あるいは研究し、あるいは静観していた。終日彼は社会問題を探究していた。すなわち、給料、資本、信用、婚姻、宗教、思想の自由、恋愛の自由、教育、刑罰、貧窮、組合、財産、生産、分配、すべて人類の群れを暗き影でおおう下界の謎《なぞ》を探究していた。そして夜になると、あの巨大なる存在者たる星辰《せいしん》をながめた。アンジョーラのごとく、彼は金持ちでひとり息子であった。彼はもの柔らかに話をし、頭を下げ、目を伏せ、きまり悪るげにほほえみ、ぞんざいな服装をし、物なれない様子をし、わずかなことに赤面し、非常に内気だった。それでもまた勇敢であった。
 フイイーは、扇作りの職工で、父も母もない孤児で、一日辛うじて三フランをもうけていた。そして彼は世界を救済するという一つの考えしか持たなかった。それからなおも一つの仕事を持っていた、すなわち学問をすることで、それを彼はまた自己を救済することと呼んでいた。彼は独学で読むこと書くことを学んだ。彼のあらゆる知識はただひとりで学んだのだった。彼は寛大な心を持っていた。広大な抱擁力を持っていた。この孤児は民衆を自分の養児としていた。母がいなかったので、祖国の事を考えていた。祖国を持たぬ人間の地上にいることを欲しなかった。民衆の人たる深い洞察力《どうさつりょく》をもって、われわれが今日|民族観念[#「民族観念」に傍点]と呼ぶところのものを心の中にはぐくんでいた。悲憤|慷慨《こうがい》もよくその原因を知悉《ちしつ》した上のことでありたい
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