だ一度も持ったことがなかったのである。
 室《へや》の中を行ったり来たりしていたテナルディエの上さんは、コゼットがぼんやりして仕事もしないで、二人の娘の遊ぶのを見入っているのを、ふと見て取った。
「ああこれ!」と彼女は叫んだ。「それで仕事をしてるのか。覚えておいで、鞭《むち》で打ってでも働かしてやるから。」
 見なれぬ旅客は、椅子《いす》にすわったまま上さんの方へふり向いた。
「お上さん、」と彼はおずおずしたようなふうで、ほほえみながら言った、「まあ遊ばしておやりなさい。」
 もしそういうことが、夕食の時に一片の焼き肉を食い二本のぶどう酒を傾け、ひどい貧乏人[#「ひどい貧乏人」に傍点]の様子をしていない旅客から言われたのであったら、一つの命令と同様な力になったかも知れない。けれども、そんな帽子をかぶった男が希望を申し出たり、そんなフロックを着た男が意志を表白したりすることは、テナルディエの上さんには許すべからざることのように思えたのだった。彼女は慳貪《けんどん》に言葉を返した。
「仕事をさせないわけにはいきません。物を食べますからね。何もさせないで食わしておくことはできませんよ。」

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