プティー・ピクプュスの修道女らの礼拝堂の祭式を唱えにやって来ることは、彼の仕事の一つとなっていた。若い幽閉の女らはだれも、セルの幕が掛かってるために彼の姿を見ることはできなかったけれど、彼はやや細いやさしい声を持っていたので、彼女らはそれをやがて聞き覚えて、他の者の声と聞き分けることができるようになった。彼は近衛《このえ》にはいっていたことがあるし、それからまた人の言うところによると、非常なおめかしやで、美しい栗色《くりいろ》の髪を頭のまわりにみごとに縮らしているそうであるし、広い黒いりっぱなバンドをしめており、その教服は世に最も優雅にたたれているそうである。そして彼は十六、七歳の娘のあらゆる想像の的となっていた。
 何ら外部の物音は、修道院の中まで達してこなかった。けれどもある年、笛の音が聞こえてきた。それは一事件だった。当時の寄宿生らは今もなおそれを思い起こすだろう。
 それはだれかが付近で奏する笛の音であった。今日ではもう遠く忘られている一つの歌曲をいつも奏していた。「わがゼチュルベよ[#「わがゼチュルベよ」に傍点]、わが魂の上にきたり臨め[#「わが魂の上にきたり臨め」に傍点]。」そして日に二三回もそれが聞こえた。
 若い娘たちは数時間それに聞きほれてることがあった。声の母たちは狼狽《ろうばい》した。神経は過敏になって、むやみと罰が課せられた。そういうことが数カ月続いた。寄宿生らは皆多少その見知らぬ音楽家に心を動かしていた。各自に自分をゼチュルベと夢想していた。笛の音はドロア・ムュール街の方から響いていた。笛をあれほど美妙に奏しているその「青年」、自ら気づかずにこれらすべての娘の魂を同時に奏しているその「青年」、彼の姿をたとい一瞬間でもながむることができ、垣間《かいま》見ることができ、瞥見《べっけん》することができるならば、彼女らはすべてを捨てて顧みず、すべてを冒し、すべてを試みたであろう。中には通用門からぬけ出して、ドロア・ムュール街に臨んだ四階の方まで上ってゆき、高窓からのぞこうとした者もあった。けれども、見ることはできなかった。そのうちの一人は、頭の上に手を差し伸ばして窓の格子《こうし》から外に出し、白いハンカチを打ち振りまでした。またもっと大胆なまねをした者が二人あった。彼女らは屋根の上までよじのぼり、危険を冒して、ついに首尾よく「青年」を見ることができた。ところがそれは、零落した盲目の老亡命者であって、屋根裏の部屋で退屈まぎれに笛を吹いてるのだった。

     六 小修道院

 このプティー・ピクプュスの構内には、全く異なった三つの建物があった。修道女らが住んでいる大きな修道院、生徒らが泊まっている寄宿舎、それから小修道院[#「修道院」に傍点]と言われていたところのもの。小修道院は庭のついた一連の長屋で、各種の会派のあらゆる老修道女らがいっしょに住んでいて、革命のために破壊された修道生活の名残《なご》りのものであった。黒や灰色や白やあらゆる色の混合であって、あらゆる組合あらゆる種類のものの会合であった。もしこういう言葉の組み合わせが許されるならば、雑色修道院とも呼び得べきものであった。
 既に帝政の頃から、革命のために散乱して途方にくれてるあわれな修道女らは、ベネディクト・ベルナール派の建物のうちに身を置くことを許されたのである。政府は彼女らにも少しの年金を与えた。プティー・ピクプュスの女たちは前から年金を喜んで受けていたのである。それは実におかしな混合体で、各自に自派の規則を守っていた。時とすると寄宿舎の生徒らは、大休みとして、彼女らを訪問することが許された。若い生徒らが、サン・バジル長老やサント・スコラスティック長老やジャコブ長老などのことを特に覚えていたのは、この訪問の結果である。
 それらの避難修道女のうちの一人は、ほとんど自分の家に帰ってきたような観があった。それはサント・オール派の修道女で、その一派からただ一人生き残っていた者である。サント・オール派の昔の修道院は、十八世紀の初めには、後にマルタン・ヴェルガのベネディクト修道女らのものとなったプティー・ピクプュスの家にあったのである。この聖《きよ》き童貞女はごく貧しくて、自派のりっぱな服、緋《ひ》色の肩衣のついた白の長衣を、ふだんに着られなかったので、それを大事そうに小さな像に着せておいた。彼女はその像を慇懃《いんぎん》に人に見せていたが、死ぬ時にそれを建物に遺贈した。かくて一八二四年には、このサント・オール派のものは一人の修道女きり残っていなかったが、今日ではもう一つの人形きり残っていない。
 それらのりっぱな長老たちのほかに、たとえばアルベルティーヌ夫人のような世俗の老女も数人、小修道院に隠退することを院長から許されていた。その中には、ボーフォ
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