黠《かんかつ》なる工事は、もとよりいかなる係蹄《わな》をも許す戦争ではとがむべきことではないが、いかにも巧みになされていたので、敵の砲座を偵察せんため午前九時に皇帝からつかわされたアクソーもまったく気づかず、立ち帰ってナポレオンに報告したところは、ただ、ニヴェルおよびジュナップから行く両道をさえぎっている二つの防寨《ぼうさい》のほかには、何らの障害もないというのであった。ちょうど畑の作物が高く伸びている時期であって、高地の縁には、ケンプト旅団の一隊第九十五連隊が、カラビーヌ銃を帯びて高い麦の間に伏してるのだった。
かく安全にかつ守りを固くして、イギリス・オランダ軍の中央は好地位に置かれていた。
その陣地の危険はただソアーニュの森であった。その森は当時戦場に接していて、グレナンデルとボアフォールとの二つの池で仕切られていた。そこに退くとすれば軍隊の隊伍は乱れるに違いなかった。連隊は直ちに分散をきたすに違いなかった。砲兵は沼の中に進退を失うに違いなかった。もとより異議を立てる者もあったが、多くの専門家の意見によれば、退却はそこでは潰走《かいそう》に終わるのほかはなかったであろう。
ウェリントンは、シャッセの一個旅団を右翼から抜きウィンケの一個旅団を左翼から抜き、それを中央に加え、次にクリントンの師団をも加えた。そしてそれら手中のイギリス軍、ハルケットの数個連隊、ミッチェルの旅団、メートランドの近衛軍、などの主力になお支持隊として、ブルンスウィックの歩兵、ナッソーの徴集兵、キエルマンゼーゲのハンノーヴル兵、およびオンプテーダのドイツ兵などを加えた。それで彼は二十六個大隊を提げていたのである。シャラスが言ったように、右翼は中央の背後に立て直された[#「右翼は中央の背後に立て直された」に傍点]。莫大《ばくだい》な砲兵隊は、今日いわゆる「ワーテルローの博物館」があるあの場所に、土嚢《どのう》で隠されていた。ウェリントンはなおその上、ソマーセットの近衛竜騎兵千四百騎をあるくぼ地に有していた。それは世の定評に恥じない勇敢なるイギリス騎兵の半分であった。ポンソンビーは粉砕されたが、ソマーセットは残っていたのである。
一度完備すればほとんど一つの角面|堡《ほ》ともなるべきその砲兵隊は、ごく低い塀《へい》の後ろに配置され、砂嚢《さのう》の被覆と大なる土堤とで急速におおわれた。しかしその工事は全部済んではいなかった。それは柵《さく》を施すだけの時間がなかったのである。
ウェリントンは不安ではあったがなお平然として馬にまたがり、モン・サン・ジャンの古い風車小屋の少し前方、楡《にれ》の木の下に、終日同じ姿勢で立っていた。その風車小屋は今もなお残っているが、楡の木の方は、物のわからぬあるイギリスの心酔家が、その後二百フランで買い取り、切り倒して持っていってしまったのである。ウェリントンはそこに、冷然たる勇気をもって立ちつくしていた。砲弾は雨と降りきたった。副官のゴルドンは彼のそばで倒れた。ヒル卿は破裂する榴弾《りゅうだん》をさしながら言った。「閣下、閣下の示教せらるるところは何でありますか。もし戦死せらるる場合にはいかなる命令をあとに残されますか?」「私のとおりせよということだ[#「私のとおりせよということだ」に傍点]、」とウェリントンは答えた。彼はまたクリントンに簡単に言った、「最後の一人までここにふみ止まれ[#「最後の一人までここにふみ止まれ」に傍点]。」戦いは明らかに不利になってきた。ウェリントンはタラヴェラやヴィットーリアやサラマンクなどの昔の戦友たる部下に叫んでいた、「諸子よ[#「諸子よ」に傍点]! いかで退却をなし得るか[#「いかで退却をなし得るか」に傍点]。古よりのイギリスを考えてみよ[#「古よりのイギリスを考えてみよ」に傍点]!」
四時ごろ、イギリスの戦線は後方に動き出した。と突然、高地の頂には砲兵と狙撃兵《そげきへい》とのほか何も見えなくなった。その他のものは姿を消した。全連隊は、フランスの榴弾と砲弾とに追われて、後方深く退いた。そこにはモン・サン・ジャンの田圃《たんぼ》道が今日もなお横切っている。後退運動が起こされ、イギリス戦線の正面は取り払われ、ウェリントンも退いた。「退却を始めた!」とナポレオンは叫んだ。
七 上|機嫌《きげん》のナポレオン
皇帝は病気にかかっていて馬上では局所に苦痛を感じて困難ではあったが、かつてその日ほど上機嫌《じょうきげん》なことはなかった。心情を発露することのないその顔つきも、朝から微笑をたたえていた。大理石の面をかぶったようなその深い魂も、一八一五年六月十八日には何ということもなく光り輝いていた。アウステルリッツにおいて陰鬱《いんうつ》であったその人も、ワーテルローにおいては快活
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