で。声を出したり、泣いたりすると、テナルディエの上さんが待ち受けてるよ。お前を取り戻しにきてるんだよ。」
 それから、別に急ぎもせず、しかしすべてを一度でやってのけるようにして、しっかりした簡単な正確さで、それも巡邏とジャヴェルとが刻一刻に押し寄せつつある危急なおりなのでいっそう驚くべきことではあったが、彼は自分のえり飾りをはずし、それをコゼットの両腋《りょうわき》の下に身体を痛めないように注意して結わえ、海員たちが燕結《つばめむす》びと称する結び方でその襟飾《えりかざ》りを綱の一端に結わえ、綱の他の一端を口にくわえ、靴と靴足袋とをぬいで壁の向こうに投げ込み、築塀《ついべい》の上にのぼり、そして壁と切阿《きりづま》との角をよじのぼりはじめたが、あたかも踵《かかと》と肱《ひじ》とを梯子《はしご》にかけてるかと思われるほど確実自在なものだった。半分時とたたないうちに彼は壁の上にはい上がった。
 コゼットは呆気《あっけ》にとられて一言も口をきかずに彼を見守っていた。ジャン・ヴァルジャンの言いつけと、テナルディエの上さんという名前とが、彼女を氷のように冷たく縮み上がらしていた。
 たちまち彼女は、ジャン・ヴァルジャンが声を低めながら自分に呼びかけてるのを聞いた。
「壁に背を向けなさい。」
 彼女はそのとおりにした。
「口をきいてはいけないよ、こわがってはいけないよ。」とジャン・ヴァルジャンはまた言った。
 そして彼女は地面から引き上げられるのを感じた。
 自ら気がつかないうちに彼女は壁の上にきていた。
 ジャン・ヴァルジャンは彼女をとらえて背にかつぎ、その小さな両手を左の手で押さえ、腹ばいになって、壁の上を切り取られた断面の所までやって行った。そこには彼の推察どおり、一つの小屋があって、木の塀《へい》の上から屋根がさし出て、ゆるやかな勾配《こうばい》をなして地面に近くたれていて、菩提樹《ぼだいじゅ》の木とすれすれになっていた。
 仕合わせなことだった。というのは、壁はその内部の方では外の街路の方よりもずっと高くなっていた。ジャン・ヴァルジャンは自分の下の方ごく深くに地面を見とめた。
 彼が屋根の斜面の所へ達して、壁の頂から離れようとした時に、激しい音が巡邏《じゅんら》のやってきたことを示した。ジャヴェルの雷のような声が聞こえた。
「袋町をさがしてみい! ドロア・ムュール街にもピクプュス小路にも見張りがついてる。きっと袋町のうちにいるに違いない!」
 兵士らはジャンロー袋町のうちにはいり込んで行った。
 ジャン・ヴァルジャンはコゼットを負いながら屋根をすべりおり、菩提樹に取りついて地面に飛びおりた。恐怖のためか元気を出したのか、コゼットは息をも潜めていた。両手には少し擦過傷《すりきず》がついていた。

     六 謎《なぞ》のはじめ

 ジャン・ヴァルジャンがはいった所は、ごく広い異様なありさまをした一種の庭であった。特に冬にそして夜分にながめるためにこしらえられたかと思われるほど寂しい庭であった。長方形をなしていて、奥には大きな白楊樹《はこやなぎ》の並んだ通路があり、すみずみにはかなり高い木立ちがあり、まんなかはうち開けた空地になっていて、一本のごく大きな樹木、大きな藪《やぶ》のように込み合って曲がりくねった数本の果樹、四角な野菜畑、月の光に輝いてる瓜畑《うりばたけ》の鐘形覆《しょうけいおお》い、古い水溜《みずだめ》などが、それと見えていた。所々に石の腰掛けがあったが、苔《こけ》に黒くなってるようだった。道にはほの暗い小さな灌木《かんぼく》が立ち並んでまっすぐに通じていた。庭の半ばは雑草が生《お》い茂り、残りは青い苔《こけ》におおわれていた。
 ジャン・ヴァルジャンのそばには、彼が屋根を伝っておりてきた小屋があり、薪《まき》がつみ重ねてあり、その後ろに壁にくっついて石の立像が一つあった。石像の欠け損じた顔は変な形の仮面のようになって、暗やみのうちにぼんやり見えていた。
 小屋はもう荒廃してしまっていて、壁の落ちた幾つかの室《へや》が認められ、その一つはいっぱい物がつまっていて物置きに使われてるらしかった。
 ピクプュス小路の方まで折れ曲がっているドロア・ムュール街の大きな建物は、直角をなした二つの正面で庭を囲んでいた。その内側の正面は、外部の正面よりいっそう陰気であった。窓には鉄格子《てつこうし》がはまっていて、燈火の影さえさしてはいなかった。上方の窓には監獄に見るように目隠しがついていた。その一方の正面の影は他の正面の上に落ち、更に庭に落ちて、広い黒布をひろげたようなありさまをしていた。
 そのほかには一軒の家も見当たらなかった。庭の奥は靄《もや》と夜とのうちに見えなくなっていた。けれども二、三の壁がぼんやり見分けられて、その交錯
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