頭に立ってる男は明らかに疑わしいと彼には思えた。
「早くおいで。」と彼はコゼットに言った。そして急いでポントアーズ街を離れた。
 彼は円形を描いて、もう遅いのでしまってるパトリアルシュの通路を回り、エペ・ド・ボア街からアルバレート街へと進み、ポスト街へはいり込んだ。
 そこに一つの四つ辻《つじ》があった。今日ロラン中学のある所で、ヌーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ街が交差してる所である。
(言うまでもなく、このヌーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ街――新サント・ジュヌヴィエーヴ街――は古い街路であって、またポスト街――郵便街――の方は十年に一度も郵便馬車さえ通ったことのないくらい寂しい街路である。ポスト街は十三世紀に瀬戸物屋などが住んでいた所で、その本当の名前はポー街――壺街《つぼがい》――というのである。)
 月はその四つ辻に強い光を投げていた。ジャン・ヴァルジャンはそこのある戸口に身を潜めた。もしあの男らが自分のあとをまだつけているのなら、その明るみを通る時にきっとよく見えるに違いない、と推測したのだった。
 果して、三分とたたないうちに、彼らの姿が現われた。四人になっていた。皆背の高い男で、長い褐色のフロックを着て、丸い帽子をかぶり、手には太い杖を持っていた。その大きな身体と大きな拳《こぶし》とは、暗やみの中のすごい歩き方とともに気味悪いものであった。四個の怪物が市人に化けたようなありさまだった。
 彼らは四つ辻のまんなかに立ち止まって、何か相談するように一群になった。決心のつかぬ様子をしていた。彼らの首領とも思える一人の男がふり返って、ジャン・ヴァルジャンがはいりこんだ方向を右手で強くさし示した。も一人の男は頑強《がんきょう》に反対の方向をさし示したらしかった。第一の男が向き直った瞬間に、月の光がその顔をすっかり照らし出した。ジャン・ヴァルジャンは十分にジャヴェルの顔を認めた。

     二 幸運なるオーステルリッツ橋の荷車

 ジャン・ヴァルジャンにとっては、もはや疑う余地はなかった。しかし幸いにも四人の男の方にはまだ疑念があった。彼は四人が躊躇《ちゅうちょ》してるのを利用した。彼らには損失の時間だったが、彼には儲《もう》けの時間だった。彼は潜んでいた戸口から出て、ポスト街を植物園の方へ進んでいった。コゼットは疲れてきた。彼はコゼットを両腕にとり上げて、抱いて歩いた。一人の通行人もなく、月夜のために街燈もともされていなかった。
 彼は足を早めた。
 数歩進むと、瀬戸物屋ゴブレの店の所に達した。その家の前面には、次のような古い文句が月の光ではっきり読まれた。

[#ここから4字下げ]
ゴブレ息子《むすこ》の工場はここじゃ。
甕《かめ》、壜《びん》、花瓶《かびん》、管、煉瓦《れんが》、
何でも望んでおいでなされ。
お望みしだいに売りますじゃ。
[#ここで字下げ終わり]

 彼はクレー街を後ろにして、次にサン・ヴィクトルの泉の所を通り、植物園に沿って低い街路を進み、そして川岸まで達した。そこで彼はふり返ってみた。川岸にも街路にも人影はなかった。自分の後ろにはだれもいなかった。彼は息をついた。
 彼はオーステルリッツ橋にさしかかった。
 当時はなお橋銭の制度があった。
 彼は番人の所へ行って一スー渡した。
「二スーだよ。」と橋番の老人は言った。「歩けるくらいの子供を抱いていなさるから、二人分払いなさい。」
 彼はそこを通って手掛かりを残しはすまいかと心配しながら金を払った。逃げるには潜み行くようにしなければいけないものである。
 ちょうどその時一台の大きな荷車が、彼と同じくセーヌ川を右岸の方へ渡っていた。それは彼に利益だった。彼はその荷車の影に隠れて橋を通ることができた。
 橋の中ほどにきた時、コゼットは足が麻痺《しびれ》たから歩きたいと言った。彼はコゼットを下におろして、またその手を引いた。
 橋を渡り終えると、前方に少し右手に当たって建築材置き場が見えた。彼はそこへ進んで行った。そこまで行くには、月に照らされたうち開けた場所をかなり歩かねばならなかった。が彼は躊躇《ちゅうちょ》しなかった。追っかけてきてた者らは確かに道を迷って、自分はもう危険の外に脱していると、彼は信じていた。まださがされてはいるだろうが、もうあとをつけられてはすまい。
 小さな街路、シュマン・ヴェール・サン・タントアーヌ街が、壁に囲まれた二つの建築材置き場の間に通じていた。その街路は狭く薄暗くて、特に彼のために作られてるかのようだった。彼はそれにはいり込みながら、後ろをふり返ってながめた。
 そこから彼は、オーステルリッツ橋をすっかり見通すことができた。
 四個の人影が橋にさしかかってるところだった。
 それらの人影は植物園を背にして、右岸の方へこようとし
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