ある屋根部屋の扉が開いて軋《きし》ったので目をさました。それから前夜階段を上ってきたのと同じ男の足音が聞こえた。足音はだんだん近づいてきた。彼は寝室から飛びおりて、鍵穴に目をおし当てた。穴はかなり大きかったので、前夜家の中にはいり込んできて扉の所で立ち聞きした其奴《そいつ》が通ってゆく所を、見て取ってやろうと思ったのである。果してそれは男であった。しかしこんどは別に立ち止まりもせずに室の前を通りすぎてしまった。廊下の中はまだ薄暗かったので、その顔はよく見分けられなかった。しかし男が階段の所まで行った時、外から差し込む一条の光が影絵のようにその姿を浮き出さした。ジャン・ヴァルジャンはそれを後ろからすっかり見て取った。背の高い男で、長いフロックを着、腕の下には太い杖を持っていた。それはジャヴェルの恐ろしい後ろ姿のようだった。
ジャン・ヴァルジャンは大通りに面する窓からも一度その男を見ることができるのだった。しかしそれには窓を開かなければならなかった。彼はそれをあえてなし得なかった。
明らかにその男は、鍵《かぎ》を持っていて自分の家にでもはいるようにはいってきたのだった。だれがその鍵を与えたのであろう? いったいどういう訳なのであろう?
朝の七時に、婆さんが室《へや》を片付けにきた時、ジャン・ヴァルジャンは鋭い目つきでじろりと彼女をながめたが、何にも尋ねはしなかった。婆さんはいつものとおりの様子であった。
掃除《そうじ》をしながら婆さんは彼に言った。
「旦那《だんな》は大方、夜中にだれかはいってきたのを聞かれたでしょう。」
彼女ほどの老年にとっては、そしてその大通りでは、晩の八時といえばもうまっくらな夜である。
「なるほど、そうでした。」と彼はきわめて自然らしい調子で答えた。「いったいどういう人です。」
「新しく部屋を借りた人ですよ、この家の中に。」と婆さんは言った。
「そして名前は?」
「よくは存じませんが、デュモンとかドーモンとか、何でもそんな名前でしたよ。」
「そしてどういう人です、そのデュモンさんというのは。」
婆さんは鼬《いたち》のような小さな目で彼を見上げて、そして答えた。
「年金を持ってる方ですよ、旦那《だんな》のように。」
彼女はたぶん別に何の考えもなくそう言ったのであろうが、ジャン・ヴァルジャンはそれにある意味がこもってるように感じた。
婆さんが行ってしまった時、彼は引き出しの中に入れていた百フランの貨幣を包み、それをポケットに入れた。そうするのにも金の音が他に聞こえないようにとよほど注意はしたが、五フランの銀貨が一つ手からすべり落ちて、床の上に大きな音を立ててころがった。
夕靄《ゆうもや》のおりる頃、彼はおりていって、大通りを注意深くあちこち見回した。だれも見えなかった。街路には全く人影が絶えてるように思われた。もっとも並み木の後ろに隠れようとすれば隠れることはできたのである。
彼はまた上っていった。
「おいで。」と彼はコゼットに言った。
彼はコゼットの手を取り、そして二人は出て行った。
[#改ページ]
第五編 暗がりの追跡に無言の一組
一 計略の稲妻形
読者がこれから読まんとするページのために、またずっと後になって読者が出会うページのために、ここにある注意をしておく必要がある。
本書の著者が、心ならずも自分のことをここに言えば、パリーを離れていることすでに数年におよんでいる([#ここから割り注]訳者注 ユーゴーが国外に亡命してることを言う[#ここで割り注終わり])。そして著者が去っていらいパリーはしだいに趣を変えてきた。著者には多少不明な新しい町になってきた。けれども著者がパリーを愛することは、ここにわざわざ言うまでもないことである。パリーは著者の精神の故郷である。ただ種々の破壊再築を経たので、著者の青年時代のパリー、著者が自分の記憶のうちに大切に持って行ったあのパリーは、今では昔のパリーとなっている。けれどもどうか、そのパリーが今なお存在するかのように語ることを許していただきたい。著者が読者を導いて、「かくかくの街路にはかくかくの家がある」という所にも、今日ではもはやそういう街路も家もないことがあるかも知れない。もし読者が労をいとわないならば、それを調べてみらるるもよいだろう。著者の方では、新しいパリーを知らないので、眼前に昔のパリーを浮かべつつなつかしい幻のままに筆をすすめてゆくことにする。故国にあった時に目撃したもののいくらかを後に残すことを思い、すべてが消えうせはしなかったと思うことは、著者にとってうれしいことである。故国のうちに起臥《きが》してる間は、その街路も自分に無関係なものであり、その窓も屋根も戸口もつまらぬものであり、その壁も没交渉なものであ
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