階は、荒廃した小屋同様で、八百屋《やおや》などの物置きになっていて、二階とは何らの交渉もなかった。二階と一階とをへだてる床《ゆか》には、引き戸も階段もなく、その破屋の横隔膜のような観があった。二階には前に言ったとおり、多くの室と数個の屋根部屋とがあったが、ただその一つに一人の婆さんが住んでるのみだった。その婆さんがジャン・ヴァルジャンにいっさいの用をしてくれた。そのほかにはだれも住んでいなかった。
婆さんは借家主[#「借家主」に傍点]という名義であったが、実は門番の役目をしてるにすぎなかった。クリスマスの日に、ジャン・ヴァルジャンに住居《すまい》を貸してくれたのはその婆さんだった。まだ年金は持ってるが、スペインの公債に手を出して失敗したので、孫娘とともに住みに来るのだと、ジャン・ヴァルジャンは婆さんに言っておいた。彼は六カ月分の前払いをして、前に述べた通りの道具を両室に備えるように婆さんに頼んでおいた。その晩暖炉に火をたき、二人が来る準備をすっかりしてくれたのは、その婆さんだった。
数週間過ぎ去っていった。二人は惨《みじ》めな室《へや》の中に楽しい生活をしていた。
夜明けごろからもう、コゼットは笑い戯れ歌っていた。子供というものは小鳥と同じく朝の歌を持っている。
時とするとジャン・ヴァルジャンはコゼットの皸《ひび》のきれたまっかな小さい手を取って、それに脣《くちびる》をつけることもあった。あわれな子供は、いつも打たれることばかりになれていたので、その意味がわからずに、恥ずかしがって手を引っ込めた。
また時には、コゼットはまじめになって、自分の小さな黒服をながめることもあった。彼女はもうぼろではなく、喪服を着ていた。彼女は悲惨から出て普通の生活にはいっていた。
ジャン・ヴァルジャンは彼女に読み方を教え初めた。彼はそうして子供につづりを言わせながら、自分が徒刑場で読み方を学んだのは悪事をなさんがための考えからであったことを時々思い出した。その考えは今では子供に読み方を教えることに変わっていた。そしてその老囚徒は天使のような思い沈んだ微笑をもらした。
そこに彼は、天の配慮を感じ、人間以上の何かの意志を感じ、我を忘れて瞑想《めいそう》にふけるのであった。善き考えも悪き考えと同じく、その深い淵《ふち》を持っているものである。
コゼットに読み方を教えること、また彼女を遊ばせること、そこにほとんどジャン・ヴァルジャンの全生活があった。それからまた彼は、母親のことを語ってきかせ、神に祈りをさした。
コゼットは彼をお父さん[#「お父さん」に傍点]と呼んでいた。それより他の名を知らなかった。
コゼットが人形に着物をきせたりぬがしたりするのをながめ、また彼女が歌いさざめくのに耳を傾けて、彼は幾時間もじっとしていた。その時からして、人生は興味に満ちたもののように思われ、人間は善良で正しいもののように感ぜられて、もはや心のうちで何人《なにびと》をもとがめず、また子供に愛せられてる今となっては、ごく老年になるまで生き長らえるに及ばないという理由は何ら認められなかった。あたかも麗しい光明によって輝かされるがようにコゼットによって輝かされる未来を、彼は自分に見いだしていた。およそいかなる善人といえども、全く私心を有しない者はない。彼も時としては、コゼットが美しくはなるまいと考えて一種の満足を感じていた。
これは一個の私見にすぎないが、しかしわれわれは考うるところをすべてここに言ってしまいたい。すなわちコゼットを愛し初めた頃のジャン・ヴァルジャンの状態を見てみるに、なお正しい道を続けて進むのにその支持者が必要でなかったかどうかは、疑わしいところである。彼は人間の悪意と社会の悲惨とを新たなる方面より目に見たのであった。もちろんそれは不完全でただ事実の一面観にすぎないものではあったが。そしてファンティーヌのうちに概略された女の運命と、ジャヴェルのうちに具現された公権とを、目に見たのであった。彼は徒刑場に戻った、それもこのたびは善をなしたがために。彼は新たなる苦しみを飲んだ。嫌悪《けんお》と疲労とにまたとらえられた。司教の記憶さえも、後にまた勝利を得て輝きだしはするが、とにかく一時は曇りかけることもあった。実際その聖《きよ》き記憶もついには弱くなってきた。恐らくジャン・ヴァルジャンは、落胆して再び堕落せんとする瀬戸ぎわにあったのかも知れない。しかるに彼は愛を知って、再び強くなった。ああ彼もまたほとんどコゼットと同じくよろめいていたのである。が彼はコゼットを保護するとともに、コゼットは彼を強固にした。彼によって、彼女は人生のうちに進むことができた。そして彼女によって、彼は徳の道を続けることができた。彼は少女の柱であった、そして少女は彼の杖《つえ》
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