に最も憎むべき者のように思った。けれども自分をおさえなければならなかった。彼女は何事にも夫をまねようとしていたので、仮面をかぶることにはよくなれていたが、それでもその時の感情にはほとんどたえ難いものがあった。彼女は急いで自分の娘たちを寝床に追いやった。それからコゼットをも寝かそうとその黄色い着物の男に許可[#「許可」に傍点]を願った。今日は大変疲れていますから[#「今日は大変疲れていますから」に傍点]などと母親らしい様子でつけ加えた。でコゼットは、両腕にカトリーヌを抱いて寝に行った。
上さんは時々、室《へや》の向こうの端の亭主の所へ行った。心を安めるために[#「心を安めるために」に傍点]と自ら言っていた。彼女は亭主とちょっと言葉をかわした。それは大声に言えないだけいっそういら立ったものだった。
「あの糞爺《くそじじい》め! どういう腹なんだろう。ここにやってきて私どもの邪魔をするなんて! あの小さな餓鬼を遊ばしたがったり、人形をやったり、それも、四十スーの値打ちもない犬女郎《いぬめろう》に四十フランもする人形をやったりしてさ! も少ししたら、ベリーの御妃《おきさき》にでも言うように、陛下なんて言い出すかも知れない。正気の沙汰《さた》か、気が狂ったのか、あの変な老耄《おいぼれ》めが。」
「なぜかって、わかってるじゃないか。」とテナルディエは答え返した。「なあに、それが奴《やつ》にはおもしろいんだ! お前にはあの児が働くのがおもしろいように、奴にはあの児が遊ぶのがおもしろいのさ。それはあの男の権利だ。客となりゃあ、金さえ出せば何でも勝手にできるんだからな。あの爺《じい》さんが慈善家だったとしても、それがお前にどうしたというわけはないじゃねえか。もしばか者だったとしたところで、お前に関係したことじゃねえ。何もお前が口を出すことはねえや。向こうには金があるんだからな。」
亭主としての言葉、宿屋の主人としての理論、それはいずれも抗弁を許さないところのものであった。
男はテーブルの上に肱《ひじ》をついて、また何か考え込んだような様子をしていた。商人や馬方などすべての他の旅客らは、少し遠くに身をさけて、もう歌も歌わなかった。彼らは一種の畏敬《いけい》の念をもって男を遠くからながめていた。あんな見すぼらしい着物をつけながら、平気で大きい貨幣をポケットから引き出し、木靴《きぐつ》をはいた小婢《こおんな》に大きな人形を奢《おご》ってやるその男は、確かに素敵なまた恐ろしい爺《じい》さんに違いなかった。
かくて数時間すぎ去った。夜半の弥撒《ミサ》もとなえられ、夜食も終わり、酒飲みの連中も立ち去ってしまい、酒場の戸も閉ざされ、その天井の低い広間にも人がいなくなり、火も消えてしまったが、不思議な男はなお同じ席に同じ姿勢でじっとしていた。時々彼は身をもたしてる肱《ひじ》を右左と変えていた。ただそれだけであった。コゼットが去ってからはもう一言も口をきかなかった。
テナルディエ夫婦だけが、作法と好奇心とからその広間に残っていた。「夜通しあんなふうにしているつもりかしら、」と女房はつぶやいた。午前の二時が鳴った時、彼女はついに閉口して亭主に言った。「私はもう寝ますよ。好きなようになさるがいいわ。」亭主は片すみのテーブルにすわって、蝋燭《ろうそく》をつけ、クーリエ・フランセー紙を読み初めた。
そういうふうにして一時間余りたった。あっぱれな亭主は少なくとも三度くらいはくり返してクーリエ・フランセー紙をその日付けから印刷者の名前まで読み返したが、男は身を動かそうともしなかった。
テナルディエは身体を動かし、咳《せき》をし、唾《つば》を吐き、鼻をかみ、椅子《いす》をがたがたいわしたが、それでも男は身動きもしなかった。「眠ってるのかしら、」とテナルディエは考えた。が男は眠ってるのではなかった。しかし何物も彼の心を呼びさますことはできなかった。
ついにテナルディエは帽子をぬぎ、静かに近寄ってゆき、思い切って彼に言ってみた。
「旦那《だんな》、お休みになりませんか。」
寝ませんか[#「寝ませんか」に傍点]という言葉でも彼にはじゅうぶんな親しいものに思われたかも知れなかった。休む[#「休む」に傍点]という言葉にはぜいたくの気味があって、敬意が含まれてるのだった。それらの言葉は翌朝の勘定書の数字を大きくする不思議な驚くべき性質を持っているのである。寝る[#「寝る」に傍点]室《へや》が二十スーなら、休む[#「休む」に傍点]室は二十フランするのである。
「やあ、なるほど。」と男は言った。「廐《うまや》はどこにありますか。」
「旦那、」とテナルディエは微笑を浮かべて言った、「御案内いたしましょう。」
亭主は蝋燭《ろうそく》をとり、男は包みと杖とを取った。そして亭主は
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