た。
 御者は馬車の中の乗客たちの方へふり向いて言った。
「今の男はこの辺の者じゃありませんよ。私は見たこともないから。一スーの金もなさそうな様子だったが、金のことなんかは考えてもいないと見える。ランニーまでの金を払っておきながらシェルまできておりてしまった。もうすっかり夜で、家はみなしまってるのに、あの男は宿屋にはいりもせず、また姿も見えません。地の中へでももぐり込んだんでしょう。」
 が男は地の中へもぐり込んだのではなかった。彼はやみの中を急いでシェルの大通りを大またに歩いてゆき、それから教会堂の所まで行く前に左へ曲がって、モンフェルメイュに通ずる村道を進んで行った。あたかもその辺の地理には明るく、また前にもきたことがあるもののようだった。
 彼は足早にその村道を歩いて行った。ガンニーからランニーへ行く古い並木道との交差点まで達した時、数人の通行人がやって来る足音が聞こえた。彼はすばやく溝《みぞ》の中に身を隠して、その人たちが遠ざかるのを待った。がもとよりそんな用心はほとんど無用なことだった。前に述べておいたとおり、まっくらな十二月の夜だったのである。空にはかろうじて二、三の星影が見えるきりだった。
 ちょうどその辺から丘へのぼり道になっていた。男はモンフェルメイュへ行く道にははいらなかった。右へ曲がって、野を横ぎり、大またに森の中へはいって行った。
 森の中まで来ると、彼は足をゆるめて、一歩一歩進みながら樹木を一々注意深くながめはじめた。ただ彼一人が知っている秘密な道をさがして、それをたどってるかのようであった。時としては、道に迷ったようで心を決しかねて立ち止まることもあった。ついに彼はようように道を探って、あるうち開けた所に達した。そこにはほの白い大きな石がつみ重ねてあった。彼は勢いよくそれらの石の方へ進んでゆき、あたかも検閲するかのように夜の靄《もや》を透かして注意深くそれらを調べた。植物の疣《いぼ》である瘤《こぶ》がいっぱいできてる一本の大木が、その石の山から数歩の所にあった。男はその木の所へ行って、その幹の皮を手でなで回した。ちょうどその疣を一々見調べて数えようとしてるがようだった。
 それは秦皮《とねりこ》の木であったが、それと向き合って一本の栗の木が立っていた。皮がはがれたために弱っていて、繃帯《ほうたい》として亜鉛の板が打ち付けてあった。男は爪先で伸び上がって、その亜鉛の板にさわってみた。
 それから彼は、その木と石の山との間の地面をしばらく足で踏んでみた。あたかも土地が新しく掘り返されはしなかったかを確かめてるようだった。
 それがすむと、彼は方向を定めて森の中を歩き出した。
 コゼットが出会ったのはすなわちその男であった。
 茂みの中をモンフェルメイュの方へ進んでいくと、彼は小さな人影を認めたのだった。その人影はため息をつきながら動いていて、ある荷物を地面に置いてはまたそれを取り上げ、そしてまた進み初めるのだった。近寄ってみると、大きな水桶《みずおけ》を持ったごく小さな子供であることがわかった。すると男は子供の所へ行って、無言のまま桶の柄を持ってやったのである。

     七 コゼット暗中に未知の人と並ぶ

 前に言ったとおり、コゼットはこわがらなかった。
 男は彼女に言葉をかけた。重々しい低音であった。
「これはお前さんにはあまり重すぎるようだね。」
 コゼットは頭をあげて、そして答えた。
「ええ。」
「貸してごらんな。」と男は言った。「私が持っていってあげよう。」
 コゼットは桶《おけ》を離した。男は彼女と並んで歩き出した。
「なるほどずいぶん重い。」と彼は口の中で言った。それからつけ加えた。
「お前さんはいくつになる?」
「八つ。」
「そしてこんなものを持って遠くからきたのかね。」
「森の中の泉から。」
「そしてこれから行く所は遠いのかね。」
「ここから十五分ばかり。」
 男はちょっと口をつぐんだが、やがてふいに言った。
「でお母さんがいないんだね。」
「知りません。」と子供は答えた。
 男が何か言おうとする間もなく彼女はつけ加えた。
「いないんでしょう。ほかの人はみなお母さんを持ってるけれど、私は持っていないの。」
 そしてちょっと黙ったあとで、彼女はまた言った。
「私には一度もお母さんはなかったようなの。」
 男は立ち止まって、桶《おけ》を地面におろし、身をかがめて、子供の両肩に手を置き、暗やみの中にその姿をながめその顔を見ようとした。
 コゼットのやせた弱々しい顔が、空の薄ら明りの中にぼんやり浮き出して見えた。
「お前さんは何という名前だい。」と男は言った。
「コゼット。」
 男はあたかも電気に打たれたようであった。彼はなお彼女をよく見、それから両手をその肩からはずし、桶を取り、そして歩き
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