使っていたが、今では鉄鎖を用いている。百門の砲を載せる船の鎖を積み重ねただけでも、高さ四尺長さ二十尺幅八尺の山ができる。そしてその船一隻を造るために何程の木材が必要であるかといえば、三千立方メートルにもおよぶのである。森が一つ海に浮かんでいるのにも等しい。
そしてしかも、読者はよく注意せらるるがいい、ここにいうのは四十年前の軍艦、一帆船のことについてである。当時まだ生まれ出たばかりであった蒸汽力はその後、軍艦と称せらるるこの怪物に新しい奇蹟をつけ加えたのである。現今においては、たとえば、スクリューのついた折衷式軍艦は、表面三千メートル平方の帆と二千五百馬力の釜《かま》とによって動かされる、驚くべき機械である([#ここから割り注]訳者注 原書の出版は一八六二年なることを読者は記憶せられたい[#ここで割り注終わり])。
それらの驚くべき新発見については言うも愚かなことであるが、クリストフ・コロンブスやルイテルの昔の船も、人間の偉大なる傑作の一つである。あたかも無限がその息吹《いぶ》きに[#「息吹《いぶ》きに」は底本では「息吹《いぶき》きに」]無尽蔵であるがごとくにそれも力において無尽蔵であり、その帆には風を蔵し、広漠として窮まりなき波濤《はとう》のうちにも正確なる方向を失わず、浮かびつつかつ主宰するのである。
しかれども一度時きたらば、一陣の颶風《ぐふう》はその長さ六十尺の帆桁をもわら屑《くず》のごとくに砕き、烈風はその高さ四百尺のマストをも藺《い》のごとくに折り曲げ、その万斤の重さの錨《いかり》も鮫《さめ》の顎中の漁夫の釣り針のごとくに怒濤の口のうちにねじ曲げられ、その巨大な大砲の発する咆哮《ほうこう》も颶風のため哀れにいたずらに空虚と暗夜とのうちに運び去られ、その全威力と全威風も更に大なる威力と威風とのうちにのみ去られ終わるのである。
広大なる威力が展開されるたびごとに、ついにはそれも非常なる微弱さに終わりゆくべき運命であるにかかわらず、人間はいつも夢想にふけらせられる。かくして海港においては、それらの戦いと航海との驚くべき機械のまわりに、自らなぜかをもよく知らないで多くの好奇《ものずき》な人々が集まって来るのである。
で毎日朝から夕方まで、ツーロン港の海岸や埠頭《ふとう》や堤防などの上には、ひまな人々やパリーでいわゆるやじ馬など、オリオン号を見るよりほかに用のない多くの人がいっぱいになっていた。
オリオン号は既に長い前から損《いた》んでいた。方々への航海中に、貝殻の厚い層が喫水部《きっすいぶ》に付着して、速力の半ばを減じていた。で前年はドックにはいってその貝殻を除かれ、そしてまた海に出て行ったのである。しかしその掃除のために喫水部の釘が損じていた。バレアール島の沖では、船腹がゆるんで穴が開いた、そして当時船体の内部は鉄板でおおわれていなかったので、水が漏り初めた。そこへ激しい彼岸嵐に襲われて、左舷《さげん》の船嘴《せんし》と一舷窓とがこわれ、前檣《ぜんしょう》の索棒が損《いた》んだ。そしてそれらの損所のためにまたツーロン港にはいってきたのである。
オリオン号は造船|工廠《こうしょう》の近くに停泊していた。そしてなお艤装《ぎそう》したまま修繕されていた。船体は右舷では少しも損んでいなかった。しかしいつもやられるとおりに、張り板はそこここはがされていて、船内に空気を通す用に供されていた。
さてある日の朝、オリオン号をながめていた群集は一事変を目撃した。
船員らはちょうど帆を張っていた。すると、右舷の大三角帆の上端をとらえる役目の水夫が身体の平均を失った。彼はよろめいた。それを見て、造船工廠の海岸に集まっていた群集は叫び声を上げた。頭をまっさきにして水夫は帆桁をぐるりと回りながら、逆様に深海に向かって両手をひろげた。その途中で彼は下がっている綱を片手でつかみ、次に両手でつかんで、そこにうまくぶら下がった。海は彼の下に目を回すような深さにたたえていた。彼の墜落の勢いのために、綱はぶらんこのように激しく動揺した。水夫はその綱の一端に揺り動かされて、ちょうど石投げひもの先につけた石のようであった。
彼を助けにゆくには恐るべき危険を冒さなければならなかった。水夫らは皆新たに徴発されて働いてる沿岸の漁夫であって、あえてその危険を冒そうとする者は一人もなかった。そのうちに不運な水夫は弱ってきた。遠いので顔にその苦悩は認められなかったが、しだいに力弱ってゆくことは手足にそれと認められた。両腕は見るも恐ろしいほど引っ張られていた。再びよじ上ろうとする努力は、ぶら下がった綱の動揺をいたずらに増すばかりだった。彼は力を失うのを恐れて声も立てなかった。もはや彼が綱を離す瞬間を待つばかりだった。そして人々は彼が落ちてゆくのを見まいとし
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