っていない。皆平等な洗礼名の下に頭をたれている。彼らは肉親の家庭を解除して、その会派のうちに精神的の家庭を立てている。彼らの親戚はただすべての人である。彼らは貧しい人々を助け、病める人々を看護する。彼らはおのれが服従すべき人を自ら選む。互いに彼らは「わが兄弟姉妹」と呼ぶ。
かく言えば人は私をさえぎって叫ぶであろう、「しかしそれは理想の修道院だ!」
しかしそれを考察するには、ただそれがあり得べきものでさえあればいい。
かくて私は前編において、一つの修道院のことを敬意をこめた調子で語ったのである。そして中世を外にし、アジアを外にし、歴史的政治的問題を差し控え、純然たる哲学的見地に立ち、攻撃的論議の道具を捨てて、修道生活は絶対に自発的なもので同意をしか含んでいないという条件において、注意深い真剣さとある点に関しては謙遜なる真剣さとをもって、修道会をなお続けて考察していってみよう。一つの組合がある所には自治区があり、一の自治区がある所には権利がある。修道院も平等と友愛という規範から生じたものである。ああいかに自由とは大なるものであるか、そしていかに光輝ある変容であることか! 修道院を共和国に変容せしむるためには、ただ自由ということで足りる。
なお言葉を進めてみよう。
あの四方の壁の背後にいるそれらの男や女は、荒布をまとい、みな平等で、互いに兄弟姉妹と呼んでいる。それはよろしい。しかし彼らはなお他の事をもなすか?
しかり。
何を?
彼らは影を見つめ、ひざまずき、手を合わしている。
それはいったいいかなる意味であるか?
五 祈祷《きとう》
彼らは祈る。
だれを?
神を。
神を祈る、この語は何を意味するか?
われわれの外部にある無窮なるものがあるのではあるまいか? その無窮なるものは、単一のものであり恒久不易なるものではあるまいか。無窮なるがゆえに、また、もし実体が欠くればその点で限られたるものとなるがゆえに、それは必然に実体的のものではあるまいか、そして、無窮なるがゆえに、また、もし霊が欠くればその点で限られたるものとなるがゆえに、それは必然に霊的のものではあるまいか。われわれは自身に存在の観念しか与え得ないが、その無窮なるものはわれわれのうちに本質の観念を覚《さま》させるのではあるまいか。言葉を換えて言えば、それはわれわれの対称たる絶
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