道院制と軍国主義とを再び建てること、寄食者の増加によって社会の幸福を信ずること、現在に過去を押し付けること、それは実に常規を逸したことと思われるではないか。けれど世にはかかる理論を主張する者がある。それらの理論家は、もとより才人であって、きわめて簡単な方法を持っていて、社会の秩序、天の正義、道徳、家庭、祖先崇拝、古き権威、神聖なる伝統、正法、宗教、などと彼らが称するところの塗料を過去の上に塗る。そして彼らは叫び回る。「いざ、善良なる人々よ、これを執れ。」そういう理論は、古人の間によく知られたものであった。ローマの卜占者《ぼくせんしゃ》らはそれを実行していた。彼らは黒牛に白堊《はくあ》を塗りつけて言った、「この牛は白である。」それこそ白塗りの[#「白塗りの」に傍点]牛である。
吾人は、過去がただ死者たることを自認しさえするならば、過去をも部分的にはこれを尊び全体としてはこれをいたわってやるであろう。しかしもし生者たることを欲するならば、これを攻撃しこれを殺さんとつとむるであろう。
迷信、頑迷《がんめい》、欺瞞《ぎまん》、偏見など、それらの悪霊は、悪霊でありながらもなお生命に執着し、その妖気《ようき》の中に歯と爪とを持っている。それらに対して白兵戦を演じ、戦闘を開き、しかも間断なき戦闘をなさなければならない。なぜならば、亡霊らと絶えざる戦いをなすことは、定められたる人類の運命の一つだからである。しかしながら影は、その喉《のど》をつかみ難くうち倒し難いものである。
十九世紀のさなかに、フランスに、一修道院があるとすれば、それは日に向かってる梟《ふくろう》の学校に過ぎない。一七八九年と一八三〇年と一八四八年との三度の革命を経た都市の中央に禁慾主義を実行しながら、パリーのうちにローマを建てながら、一修道生活があるとすれば、それは時代錯誤である。普通の時にあっては、時代錯誤を解放させ消滅さするには、それができ上がった年号を呼ばすればそれで足りる。しかしながら今は普通の時ではない。
戦おうではないか。
戦おうではないか、しかしまた敵をよく弁別しようではないか。真理の特性は、決して過度ならずということである。真理は何ら誇張の必要を持っていない。破壊すべきものもあり、また単に光に照らして研究すべきものもある。好意あるまじめなる審査、それはいかに力強いことであるか。光の十分に
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