。また人員の減少につれて労苦は増してくる。各人の仕事はますます激しいものとなってくる。聖ベネディクトの重い規則をになうべき肩も、やがては前にかがんだ痛ましいもののみ十指を屈するにすぎなくなることが見えていた。しかもその重荷は絶対的のものであって、それをになうべき人員の多少にかかわらず常に同一なのである。それは人を圧迫し人を押しつぶす。かくて修道女らは死んでいった。本書の著者がなおパリーにいた頃、死んだ者が二人まである。一人は二十五歳で、一人は二十三歳だった。二十三歳の彼女は、おそらくユリア・アルピヌラのようにこう言ったであろう。「二十三年を生きて今[#「二十三年を生きて今」に傍点]妾《わらわ》ここに横たわる[#「ここに横たわる」に傍点]。」修道院が若い娘の教育をよしたのも、かかる衰微のゆえにである。
この異常な未知の薄暗い家の前を通るや、われわれはその中にはいってみざるを得なかったのである。あるいは何人《なにびと》かのためになるべきを思ってわれわれがジャン・ヴァルジャンの憂うつな物語をなすのに耳を傾けてくれる人々、われわれのあとに従ってきてくれる人々を、その中に導かざるを得なかったのである。今日ではいかにも新奇に見える古い常習に満ちたこの修道院の内部に、われわれは既に一瞥《いちべつ》を与えた。それは実に閉ざされたる庭である。禁園[#「禁園」に傍点]である。この不思議な場所のことを、詳細にしかも敬意をもって、少なくとも敬意と詳細とが相一致し得る限りにおいて、われわれは述べきたった。われわれはその全部を理解することはできないが、しかしその何物をも軽侮しはしない。死刑執行人を神聖視するまでに至ったジョゼフ・ド・メーストルの賛嘆と、十字架像をあざ笑うまでに至ったヴォルテールの冷笑と、両者からわれわれは同じ距離に立つ者である。
ヴォルテールの没論理、という一語をついでに加えよう。なぜならば、ヴォルテールはカラス([#ここから割り注]訳者注 十八世紀フランスの商人で寃罪を受けて残酷な死刑に処せられた人、ヴォルテールは彼を熱心に弁護したのである[#ここで割り注終わり])を弁護したと同様に、キリストをも弁護すべきはずだったからである。超人間的な化身説を否定する人々の前にも、十字架像は何を示すのであるか。殺害された賢者の姿をではないか。
十九世紀において、宗教的観念は危機を閲し
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