いた、大きな白い壁が。
 彼は左の方をながめた。そちらの小路は開けていた。そして約二百歩ばかり向こうには、その小路が通じてる街路が見えていた。安全なのはその方であった。
 彼はその小路の向こうに見えてる街路に出ようと思って、左へ曲がろうとした。その時、彼が出ようとしてる街路とその小路との落ち合ってる角《かど》の所に、じっとして動かない黒い立像のようなものが見えた。
 それはだれか一人の男で、明らかにそこに見張りにやってきて、通路をふさいで待っていたのである。
 ジャン・ヴァルジャンはあとにさがった。
 ジャン・ヴァルジャンがいたパリーのその一地点は、サン・タントアーヌ郭外とラーペの一郭との間であって、その後の工事のために今は全くありさまが変わってる場所の一つである。ある者はそれを醜化だと言い、ある者はそれを面目一新だと言うが、とにかく変わってしまった。畑地や建築材置き場や古い建物はもうなくなってしまっている。今日ではそこに、新しい大通りがあり、演芸場や曲芸場や競馬場があり、停車場があり、マザスの監獄がある。その懲罰機関までそなえて、なるほど進歩である。
 翰林院《かんりんいん》を四国院[#「四国院」に傍点]と呼びオペラ・コミック座をフェードー座[#「フェードー座」に傍点]と呼び続ける伝統本位の普通の俗語では、ジャン・ヴァルジャンがたどりついたその場所は、半世紀前まではプティー[#「プティー」に傍点]・ピクプュス[#「ピクプュス」に傍点]と呼ばれていた。サン・ジャック門、パリー門、セルジャン門、ポルシュロン、ガリオート、セレスタン、カプュサン、マイュ、ブールブ、アルブル・ド・クラコヴィー、プティート・ポローニュ、プティー・ピクプュス、そういうのが新しいパリーのうちに残ってる古いパリーの名前である。民衆の記憶はそれらの過去の残物の上に漂っている。
 それにプティー・ピクプュスは、単に輪郭ばかりでほとんど形をそなえたこともなかったので、スペインの町の修道院みたいな面影を持っていた。道路には舗石《しきいし》もよく敷いてなく、街路には人家もまばらであった。これから述べる二、三の街路を除いては、すべて壁ばかりで寂寞《せきばく》たるものだった。商店もなければ、馬も通らなかった。ようやく所々に窓から蝋燭《ろうそく》の光が見えてるのみで、燈火《あかり》はすべて十時には消されてしまった
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