、爺《じい》さん、」とジャン・ヴァルジャンは彼に銅貨をやりながら思い切って言ってみた。乞食は顔を上げた、そして悲しい声で答えた。「ありがとうございます、親切な旦那様《だんなさま》。」それはまさしく老寺男であった。
ジャン・ヴァルジャンはすっかり安心を覚えた。彼は笑い出した。「ジャヴェルだなんて、何を見違えたんだろう、」と彼は考えた、「俺ももう目がぼけてきたのかな。」そして彼はそのことをもう考えなかった。
それから数日後のこと、晩の八時ごろであったろう。ジャン・ヴァルジャンは室《へや》の中にいて、大きな声でコゼットに綴《つづ》りを読ましていた。その時彼は、家の戸口があいてまたしまるのを聞いた。それが彼には異様に感ぜられた。彼といっしょにその家に住んでいたただ一人の婆さんは、蝋燭《ろうそく》を倹約するためにいつも夜になるとすぐに寝るのだった。ジャン・ヴァルジャンは手まねでコゼットを黙らした。だれかが階段を上ってくる音が聞こえた。あるいは婆さんが加減が悪くて薬屋にでも行ったのかも知れない。ジャン・ヴァルジャンは耳を傾けた。足音は重々しく男のような響きだった。しかし婆さんは大きな靴《くつ》をはいてるし、年取った女の足音は男の足音によく似てるものである。それでもジャン・ヴァルジャンは蝋燭《ろうそく》を吹き消した。
彼は低い声で「そーっと寝床におはいり」とささやいて、コゼットを寝かしにやった。そして彼がコゼットの額に脣《くちびる》をあてた間に、足音は止まってしまった。ジャン・ヴァルジャンは黙って身動きもせず、背を扉《とびら》の方へ向け、そのままじっと椅子《いす》に腰掛けて、暗やみのうちに息を凝らした。かなりしばらくたっても何の音も聞こえないので、彼は音のしないように向きを変えた。そして室《へや》の入り口の扉の方へ目を上げると、鍵穴《かぎあな》から光が見えた。それが扉と壁とに仕切られた暗黒のうちに、不吉な星のように見えていた。確かにそこには、だれかが手に蝋燭を持ち聞き耳を立てているのだった。
数分過ぎて、光は立ち去った。が何の足音も聞こえなかった。それでみると、扉の所へきて立ち聞きしていた男は、靴を脱いでたに違いなかった。
ジャン・ヴァルジャンは着物を着たまま寝床に身を投じた。そして終夜目を閉じることができなかった。
夜明け頃、疲れたのでうとうとしていると、廊下の奥に
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