べての感じと考えとは、そのお爺《じい》さんを愛し初めたのだった。彼女はかつて知らなかった気持を覚えた、花が開くような一種の心地を。
 お爺さんはもう彼女には年老いてるとも貧しいとも思えなかった。彼女の目にはジャン・ヴァルジャンは美しかった、ちょうどその物置きのような室《へや》がきれいと思われたように。
 それは曙《あけぼの》と幼年と青春と喜悦との作用である。そして新たな土地と生活も多少それを助ける。陋屋《ろうおく》の上に映ずる美しき幸福の影ほど快いものはない。人はみな楽しい幻の室を生涯《しょうがい》に一度は持つものである。
 自然は五十年の歳月のへだたりをもって、ジャン・ヴァルジャンとコゼットとの間に深い溝渠《みぞ》を置いていた。しかし運命はその溝渠を埋めてしまった。年齢において異なり不幸において相似たる二つの根こぎにされた生涯は、運命のためににわかに一つ所に持ちきたされ、不可抗の力をもって結合させられた。そして両者は互いに補い合った。コゼットの本能は父をさがし求め、ジャン・ヴァルジャンの本能は一つの子供をさがし求めていた。互いに出会うことは、互いに見いだすことであった。彼らの二つの手が相触れた神秘な瞬間に、はやその二つは蝋着《ろうちゃく》してしまった。それら二つの魂が相見《まみ》えた時、両者は互いに求め合っていたものであることを感じて、互いに堅く抱き合ってしまった。
 最も深い絶対的な意味において、言わば墳墓の壁によってすべてのものからへだてられて、ジャン・ヴァルジャンは鰥夫《やもめ》であり、コゼットは孤児であった。そしてそういう境涯《きょうがい》のために、天国的にジャン・ヴァルジャンはコゼットの父となった。
 実際シェルの森の中で、やみの中にジャン・ヴァルジャンの手がコゼットの手を執ったとき、コゼットの受けた神秘な印象は、一つの幻影ではなくて現実であった。その子供の運命のうちにその男がはいってきたことは、神の出現であった。
 それにまた、ジャン・ヴァルジャンは隠れ家《が》をよく選んでいた。彼はほとんど欠くるところなき安全さでそこにいることができた。
 彼がコゼットとともに住んだ別室付きの室《へや》は、大通りに面した窓のついてる室だった。その窓はこの家のただ一つのものだったから、前からも横からも隣人に見らるる恐れは少しもなかった。
 この五十・五十二番地の建物の一
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