そのうちに囚人は水夫の近くに身を下げることができた。危うい時間であった。いま一分も遅ければ、その水夫は疲れ切って絶望し、深淵のうちに身を落とすところだった。囚人は一方の手で繩に身をささえながら、他方の手で水夫をその繩でしかと繋《つな》ぎとめた。見ると、ついに彼は帆桁の上にまたよじ上り、水夫を引き上げてしまった。彼はそこでちょっと力を回復させるために水夫を抱きとめ、それから彼を小腋《こわき》に抱え、帆桁の上を横木の所まで歩いてゆき、そこから更に檣櫓《しょうろ》までいって、そこで彼を仲間の人々の手に渡した。
その時群集は喝采《かっさい》した。老看守のうちには涙を流す者もいた。女たちは海岸の上で相抱いた。一種の感きわまった興奮した声で「あの男を許してやれ!」と異口同音《いくどうおん》に叫ぶのが聞こえた。
そのうちにも彼の方は、また労役に従事するために、義務として直ちにそこからおり初めた。早く下に着くために、彼は綱具のうちをすべりおり、それから下の帆桁の上を走り出した。人々の目は彼のあとを追った。ところがある瞬間に、人々ははっと恐れた。疲れたのかまたは目が回ったのか、彼はちょっと躊躇《ちゅうちょ》しそしてよろめいたようだった。と突然、群集は高い叫び声をあげた。囚人は海中に落ちたのである。
その墜落は危険であった。軍艦アルゼジラス号がちょうどオリオン号と相並んで停泊していた、そしてあわれな徒刑囚はその間に落ちたのだった。彼は両艦のいずれかの船底にまき込まれる恐れがあった。四人の男が急いでボートに飛び乗った。群集は彼らに声援した。心痛は人々の心のうちにまた新たになった。男は水面に浮き上がらなかった。あたかも石油|樽《だる》の中に落ち込んだがように、一波も立てずに海中に消え失せてしまった。人々は水中を探り、また潜《もぐ》ってみた。しかし無益であった。夕方まで捜索は続けられた。けれども死体さえも見つからなかった。
翌日、ツーロンの新聞は次の数行を掲げた。
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一八二三年十一月十七日――昨日、オリオン号の甲板で労役に従事していた一囚徒は、一人の水夫を救助して帰り来る時、海中に墜落して溺死《できし》した。死体は発見されなかった。察するところ、造船工廠の先端の杭《くい》の間にからまったものであろう。その男の在監番号は九四三〇号で、ジャン・ヴァルジャンとい
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