らめいていた。微風が、ほとんど一つの息吹《いぶ》きが[#「息吹《いぶ》きが」は底本では「息吹《いぶき》きが」]、灌木《かんぼく》の茂みをそよがしていた。鬼の飛び去るのに似よった震えが、草むらの中にはあった。
 イギリスの陣営の巡察や巡邏《じゅんら》の兵士らのゆききする足音が、ぼんやり遠くに聞こえていた。
 ウーゴモンとラ・エー・サントとはなお燃えていた。一つは西に一つは東に二つの大きな火炎を上げ、地平線の丘陵の上に広く半円に広がってるイギリス軍の野営の火が、その間を糸のように連結していて、両端に紅宝玉をつけた紅玉《ルビー》の首環《くびわ》が広げられてるかのようだった。
 われわれは既にオーアンの道の災害を述べておいた。幾多の勇士にとってその死はいかなるものであったろうか。それを思えば心もおびえざるを得ない。
 もし何が恐るべきかと言えば、もし夢にもまさる現実があるとすれば、それはおそらくこういうことであろう。生き、太陽を見、雄々しい力は身にあふれ、健康と喜悦とを有し、勇ましく笑い、前途のまばゆきばかりの光栄に向かって突進し、胸には呼吸する肺を感じ、鼓動する心臓を感じ、推理し語り考え希《ねが》い愛する意志を感じ、母を持ち、妻を持ち、子供を持ち、光明を有し、そして突然に、声を立てる間もなく、またたくひまに、深淵のうちにおちいり、倒れ、ころがり、押しつぶし、押しつぶされ、麦の穂や花や木の葉や枝をながめ、しかも何物にもつかまることができず、今はサーベルも無益だと感じ、下には人間がおり、上には馬がおり、いたずらに身を脱せんとあがき、暗黒のうちに骨は打ち折られ、眼球の飛び出るほど踵《かかと》でけられ、狂うがごとく馬の蹄《ひづめ》にかじりつき、息はつまり、うなり、身をねじり、そこの下積みになっていて、そして自ら言う、「先刻まで私は生きていたのだ!」
 その痛ましい災害の最期の苦悶が聞こえていたその場所も、今はすべてひっそりと静まり返っていた。凹路《おうろ》の断崖は、ぎっしり積み重ねられた馬と騎兵とでいっぱいになっていた。恐ろしいもつれであった。もはやそこには斜面もなかった。死骸はその凹路を平地と水平にし、枡《ます》にきれいにはかられた麦のようにその縁と平らになっていた。上部は死骸《しがい》の堆積《たいせき》、下の方は血潮の川。それが一八一五年六月十八日の夜におけるその道路のありさ
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