く私に知恵を授けんつもりでこられたあなた自身の、あなたの真実根本の価値について、それは私に何も知らせないのである。今私が話してる相手はだれであるか? あなたはだれであるか?」
 司教は頭をたれて答えた、「私は虫けらにすぎません[#「私は虫けらにすぎません」に傍点]。」
「四輪馬車に乗った地上の虫けら!」と民約議会員はつぶやいた。
 こんど傲然《ごうぜん》たるは民約議会員であって、謙譲なるは司教であった。
 司教は穏やかに言った。
「それとまあしておきましょう。しかし私に説明していただきたいものです。あの木立ちの向こう二歩の所にある私の四輪馬車が、私が金曜日に食する田鶴《ばん》と珍膳とが、私の邸宅や従僕らが、憐憫《れんびん》は徳でなく、寛容は義務でなく、九三年は苛酷《かこく》なものでなかった、ということを何において証明するでしょうか。」
 民約議会員は手を額《ひたい》にやった、あたかもある雲をそこから払いのけんがためのように。
「あなたにお答えする前に、」と彼は言った、「私はお許しを願っておきたい。私はただ今間違ったことをしたようです。あなたは私の家にきておられ、あなたは私の客人です。私はあなたに対して丁寧であらねばならないはずです。あなたは私の意見を論ぜらるる。で私はあなたの推論を駁《はく》するに止むるが至当です。あなたの財宝や享楽などは私があなたを説破するための利点です。しかしそんなことについては何も言わない方が作法でしょう。私は誓ってそれらの利点をもう用いないことにしましょう。」
「それはありがたいことです。」と司教は言った。
 G《ゼー》は更に言った。
「あなたが求められた説明に帰りましょう。ところでどういうことでしたか。何をあなたは言ってたのですか。九三年は苛酷であったと?」
「苛酷、そうです。」と司教は言った。「断頭台に向かって拍手をしたマラーをどう考えますか。」
「では新教迫害に関して讃歌《テデオム》を歌ったボシュエについて何と考えます?」
 答えは冷酷だった、しかも刃の切れ先をもってするごとく厳《きび》しく要所を衝《つ》いた。司教はぞっとした。何の抗論もちょっと彼の心に浮かばなかった。しかし彼はボシュエに対するかくのごとき言い方に不快の念をいだいた。すぐれたる人も皆その崇拝者を有するものである。そしてしばしば論理上にもその人に対する尊敬を欠かれると漠然と不快の念を覚ゆることがある。
 民約議会員は息をあえぎはじめた。臨終の呼吸に交じり来る苦痛の息切れは、彼の言葉を妨げた。それでも彼はなお、目のうちにはまったく明瞭《めいりょう》な精神を宿していた。彼は続けて言った。
「なおかれこれ数言費やしてみましょう。全体としては広大なる人類的肯定である革命の外にあって、九三年は不幸にも一つの抗弁です。あなたはそれが苛酷であると言わるる。しかしすべて王政時代はどうですか。カリエは盗賊であるとするも、しかしあなたはモントルヴェルにいかなる名前を与えるのですか。フーキエ・タンヴィールは乞食《こじき》であるとするも、しかしラモアニョン・バーヴィルについてあなたはいかなる意見をいだいているのですか。マイヤールは恐るべきであるとするも、しかしソー・タヴァンヌはいかがです。老デュシェーヌは獰猛《どうもう》であるとするも、しかし老ルテリエに対してあなたはいかなる形容をするのですか。ジュールダン・クープ・テートは怪物であるとするも、しかしルーヴォア侯ほどではなかった。私は大公妃にして女王であったマリー・アントアネットをあわれに思う。しかし私はまた、ルイ大王の時に、小児《こども》に乳を与える所を捕えられて、腰まで裸にされ、杭《くい》に縛られ、小児は彼方《かなた》へ引き離された、あのユーグノー派の気の毒な婦人をも、同様にあわれむのです。乳房《ちぶさ》は乳に満ち心は苦しみに満ちていた。飢えたまっさおな小児はその乳房を見ながら、もだえ泣き叫んだ。刑執行人は母たり乳母《うば》たるその婦人に向かって、異端の信仰を去れ、と言いながら、小児の死か良心の死かいずれかを選ばせようとした。一個の母親に適用されたタンタルス([#ここから割り注]訳者注 永久の飢渇に処刑せられたるギリシャ神話中の人物[#ここで割り注終わり])の処刑を、あなたは何と言われますか。よろしいですか、フランス大革命はその正当の理由を有しているのです。その憤怒は未来によって許さるるでしょう。その結果はよりよき世界です。その最も恐るべき打撃からは人類に対する愛撫《あいぶ》が出て来るのです。簡単に言ってのけましょう。私の方が有利だから止《よ》しましょう。それに私はもう死ぬのです。」
 そして司教を見るのをやめて民約議会員は、次の静かな数語のうちにその思想を言ってのけた。
「そうだ、進歩の激烈なるを革命と呼ぶ。革命が過ぎ去る時に人は認むる、人類は酷遇されたと、しかも人類は進歩をしたと。」
 民約議会員は、司教の内心の防御障壁をことごとくそれからそれへと打ち破ったことを疑わなかった。しかれどもなおそこには一つ残っていた。そしてビヤンヴニュ閣下の最後の抵抗手段たるその障壁から、次の言葉が出た。そのうちにはほとんど初めのとおりの辛辣《しんらつ》さがまた現われていた。
「進歩なるものは神を信じてるはずです。善は不信の僕《しもべ》を持つわけはありません。無神論者である人は、人類の悪い指導者です。」
 人民の代表者たる老人は答えをしなかった。彼は身を震わした。彼は空をながめた、そしてしだいに目に涙がわき出てきた。涙はまぶたにあふれて、蒼白《そうはく》のほほに伝わって流れた。彼は空の深みに目を定めたまま、自分自らにささやくがように声低くほとんどどもりながら言った。
「おお汝《なんじ》! おお理想! 汝のみひとり存在する!」
 司教は名状すべからざる一種の衝動を感じた。
 ちょっと沈黙の後、老人は空の方に指をあげてそして言った。
「無限は存在する。無限は彼処《かしこ》にある。もしも無限にその自我がないとするならば、この我なる自我がその範囲となるだろう。無限は無限でなくなるだろう。言い換えれば無限は存在しなくなるだろう。しかるに無限は存在する。ゆえにそれは一つの自我を持つ。この無限の自我、それが神である。」
 瀕死《ひんし》の彼は、あたかも何者かを認めたがように、恍惚《こうこつ》として身を震わしながら声高に、それらの最後の言葉を発した。言い終えた時に、彼の目は閉じた。努力のために疲憊《ひはい》しつくしたのであった。残された数時間を一瞬間のうちに彼は明らかに生きたのだった。彼の今言ったことが、彼を死のうちにある彼と接近せしめたのだった。最期の時が近づいていた。
 司教はそれを了解した。時機は切迫していた。彼がそこへきたのは、あたかも臨終に迎えられた牧師のようであった。彼は極度の冷淡よりしだいに極度の感動に移されていた。彼はその閉じた目をながめた。彼は年老いしわ寄ったその冷たい手を取った。そして臨終の人の上に身をかがめた。
「今は神の時間です。もしわれわれが互いに出会ったことが無益であるならば、それは遺憾なことだとは思われませぬか。」
 民約議会員は目を再び開いた。暗影の漂った沈重さが顔には印せられた。「司教、」と彼はゆるやかに言い出した。そのゆるやかな調子は、気力の喪失によるよりもむしろ尊厳な心霊のためにであったろう。「私は自分の一生を瞑想《めいそう》と研究と観照とのうちに過ごした。国家が私を招き国事に参与するように命じた時、私は六十歳であった。私はその命に服したのである。多くの弊害があった。私はそれと戦った。種々の暴戻《ぼうれい》があった。私はそれを破壊した。種々の正義と主義とがあった。私はそれを布告し宣言した。領土は侵された。私はそれを防御した。フランスは脅かされた。私はそのために自己の胸を差し出した。私は富者ではなかった。私は貧しい者である。私は参事院議官の一人であった。国庫の室は正金に満ちていて、金銀貨の重みにこわれかかってる壁には支柱を施さねばならなかった。が私はアルブル・セック街で一人前二十二スーの食事をしていた。私は虐《しいた》げられし者を助け、悩める者を慰めた。私が祭壇の幕を引き裂いたのは事実である。しかしそれは祖国の瘡痍《そうい》を繃帯《ほうたい》せんがためであった。私は常に光明へ向かって人類が前進するのを助けた。そして時としては慈悲を知らぬ進歩には反対した。場合によってはあなた方私自身の敵をも保護した。フランドルのペテゲムに、メロヴァンジアン家の諸王が夏の宮殿を所有していたあの場所に、ユルバニストらの修道院たるサント・クレール・アン・ボーリユー修道院があったが、一七九三年には私はそれを救った。私は自分の力に従って自分の義務を尽くし、自分のなし得る善をなした。しかる後に私は、追われ、狩り出され、追跡され、迫害され、誹謗《ひぼう》され、嘲笑《ちょうしょう》され、侮辱され、のろわれ、人権を剥奪《はくだつ》された。既に久しい以前から私は自分の白髪とともに、多くの人々が私を軽蔑《けいべつ》するの権利を有するかのように思っているのを、知っている。憐れな無知な群衆にとっては、私は天罰を被った者のような顔をしていただろう。そして私は自らだれをも恨まずに、人より嫌悪《けんお》せられた者の孤独を甘受している。今や私は八十六歳になっている。私はまさに死なんとしている。あなたは私に何を求めにこられたのか?」
「あなたの祝祷を。」と司教は言った。
 そして彼はひざまずいた。
 司教が再び頭をあげた時、民約議会員の顔はおごそかになっていた。彼は息を引き取ったのであった。
 司教はある言い知れぬ考えに沈みながら家に帰った。彼は終夜祈祷のうちに過ごした。その翌日、好奇《ものずき》な人々は民約議会員G《ゼー》氏のことについて彼と話そうとした。が彼はただ天を指《さ》すのみであった。その時いらい、彼は小児や苦しめる者に対する温情と友愛とを倍加した。
 この「極悪なるG老人」に関するあらゆる言葉は皆、彼を特殊な専念のうちに沈み込ませるのであった。彼の精神の目前におけるあの精神の通過と、彼の本心の上に投じたあの大なる本心の反映とは、彼を多少ともますます完全の域に近づかしめる助けにならなかったであろうとは、だれが言い得よう。
 この「牧師的訪問」は自然に、その地方の小さな社会にとっては議論の種となった。
「……かくのごとき男の死の枕辺《まくらべ》は、司教たる者の行くべき場所であったろうか。信仰にはいることなどをそこに待ち望むことは明らかにできなかったのである。すべてかれら革命家どもは、皆異端に陥る者らである。それでは何のためにそこに行くか。何をながめに彼は行ったのか。悪魔によって魂がかの世に運ばるるのを見たかったのに違いない。」
 ある日、自ら才機があると思っている一種無作法な一人の未亡人が、次のような皮肉を彼にあびせかけた。「大人様がいつ赤い帽子をもらわれるだろうかと人々は言っていますよ。」司教は答えた。「おおそれは下等な色です。ただ幸いにも、帽子だとそれを軽蔑する人も冠《かんむり》だとそれを尊敬します。」([#ここから割り注]訳者注 赤い帽子は革命党の章、赤の冠は枢機官の冠[#ここで割り注終わり])

     十一 制限

 前述のことよりして、ビヤンヴニュ閣下は「哲学的司教」もしくは「愛国的司祭」であったと結論するならば、誤解に陥りやすい恐れがある。彼のその出会い、民約議会員G《ゼー》との連結ともほとんど呼ばれ得るところのその出会いは、彼の心に一種の驚異を残し、彼をしてなおいっそう温和ならしめた。単にそれだけのことであった。
 ビヤンヴニュ閣下は少しも政治家的人物ではなかったけれども、当時の事件に対して彼がある態度を取らんとするならばその態度はいかなるものであったかを、きわめて簡単に示すのに、今ちょうどよい場所であるように思われる。
 それで、数年前のことにさかのぼってみよう。
 ミリエル氏が司教にあげられてしばらく後の
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